松風茶の湯の暦と銘

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栄西えいさい

1141〜1215(保延7年〜建保3年) 鎌倉字(あざな)は明庵みょうあん。千光国師せんこうこくし、葉上房ようじょうぼうとも呼ばれる。「ようさい」と読むこともあり、建仁寺けんにんじは字と名を続けて「みんなんようさい」と読む。生まれは4月20日(日本大百科全書は一説に25日とも書く)。没日は7月5日とも6月5日ともいい、没地も京都の建仁寺とも鎌倉の寿福寺ともいう。生まれた年の元号は、保延7年とする辞典と、永治元年とする辞典・建仁寺がある(どちらも1141年)。

鎌倉時代の初めの僧で、日本の臨済宗りんざいしゅう(禅宗の一派)の祖とされる。宋そう(中国)から茶の種と、抹茶まっちゃを飲む新しい飲み方を伝えたとされる。茶の種を持ち帰ったことと『喫茶養生記きっさようじょうき』を著したことから、「茶祖」とも呼ばれる。

何をした人か

生涯

備中国びっちゅうのくに(いまの岡山県)の吉備津きびつ神社の神職しんしょく、賀陽かや氏の家に生まれた。11歳で近くの安養寺の静心じょうしんに師事し、のち比叡山ひえいざんで天台宗てんだいしゅうと、天台系の密教みっきょう(台密たいみつ)を学んだ。早くから日本の仏法を盛んにしたいと願い、大陸で仏教を学ぶ志を抱いた。

1168年、28歳で宋そうに渡り、天台山てんだいさんや阿育王あいくおう山などをめぐって、同じ年のうちに帰国した。1187年、47歳で再び宋そうに渡り、天台山てんだいさんの万年寺で禅僧に師事した。師に従って天童山てんどうざんに移り、臨済宗りんざいしゅう黄龍派おうりゅうはの禅を受けて、1191年に帰国した。

帰国後は九州きゅうしゅうで禅を広めた。1194年に京都で布教を始めると、比叡山ひえいざんの反発を受けた朝廷ちょうていに、禅の布教を止められた。そのあと九州きゅうしゅうに戻り、博多はかたに聖福寺しょうふくじを建てた。1198年には、禅が国を守るのに役立つと説く『興禅護国論こうぜんごこくろん』を著して反論した。

1199年に鎌倉へ下り、北条政子ほうじょうまさこと源頼家みなもとのよりいえの帰依きえを受けて、寿福寺じゅふくじの開山かいさんとなった。1202年には頼家よりいえの保護を受けて京都に建仁寺けんにんじを開き、天台・密教みっきょう・禅をあわせて学ぶ道場とした。1206年には重源ちょうげんの後を継ぎ、東大寺とうだいじの復興に力を尽くした。

『喫茶養生記きっさようじょうき』には、1211年の初稿と1214年の再稿がある。1214年2月、将軍源実朝みなもとのさねともに茶と、茶の効能を説く書を献じたことが『吾妻鏡あずまかがみ』に見え、その書がこれと考えられている。栄西えいさいは翌1215年、75歳で亡くなった。

いまの茶道に残るもの

栄西えいさいが宋そうから伝えた茶は、緑茶の粉末をかき混ぜて飲むもので、いまの抹茶まっちゃとよく似ていたと表千家は説明する。栄西えいさいが開いた建仁寺けんにんじでは、栄西えいさいの誕生日の4月20日に四頭よつがしら茶会が開かれる。建仁寺けんにんじは、この茶礼を栄西えいさいが禅とともに伝えたものとしている。江戸時代には開山かいさん忌の食事の儀礼の一部として行われ、建仁寺けんにんじの年表では、4月20日の四頭よつがしら茶会は1954年に始まったとある。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

出典

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