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茶人
茶の湯をいまの形にしてきた人たち。何をした人かを、生まれた順に。
栄西えいさい1141〜1215(保延7年〜建保3年)鎌倉時代の初めの僧で、日本の臨済宗(禅宗の一派)の祖とされる。宋(中国)から茶の種と、抹茶を飲む新しい飲み方を伝えたとされる。茶の種を持ち帰ったことと『喫茶養生記』を著したことから、「茶祖」とも呼ばれる。能阿弥のうあみ1397〜1471(応永4年〜文明3年)室町時代の中ごろ、将軍の足利義教・義政に仕えた同朋衆(将軍のそばで雑用や美術工芸品の鑑定、芸能などを受け持った僧の姿の人々)。中国から渡ってきた美術工芸品(唐物)の鑑定や座敷の飾り方を受け持ち、水墨画や連歌にも優れた。村田珠光むらたじゅこう1423〜1502(応永30年〜文亀2年)室町時代の中ごろの茶人で、わび茶(簡素さや足りなさの中に美を見いだす茶の湯)の祖とされる。大徳寺の一休宗純に参禅した。弟子に宛てた「心の文」は、茶の湯に初めて心の問題を説いた文として知られる。武野紹鷗たけのじょうおう1502〜1555(文亀2年〜弘治元年)戦国時代の堺の豪商で、茶の湯の名人。村田珠光の流れをくむ茶の湯を深め、千利休、今井宗久、津田宗及らを育てた。千利休せんのりきゅう1522〜1591(大永2年〜天正19年)安土桃山時代の堺の茶人で、わび茶(簡素さや足りなさの中に美を見いだす茶の湯)を大成した。織田信長と豊臣秀吉に茶頭(茶の湯のことを受け持つ役)として仕えた。その茶の湯は、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家に受け継がれている。古田織部ふるたおりべ1544〜1615(天文13年〜慶長20年)安土桃山時代から江戸時代初めの武将で、千利休に茶を学んだ茶人。利休七哲(利休の高弟七人)の一人に数えられる。利休の没後は茶の湯の名人と評され、2代将軍徳川秀忠に茶の湯を指南した。形のひずんだ茶碗などの「織部好み」で知られる。千宗旦せんのそうたん1578〜1658(天正6年〜万治元年)千利休の孫で、江戸時代初めの茶人。千家の三代にあたる。生涯、大名に仕えず、わび茶に徹した。息子たちの家が、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家になった。小堀遠州こぼりえんしゅう1579〜1647(天正7年〜正保4年)江戸時代初めの大名で、古田織部に茶を学んだ茶人。遠州流茶道の祖。作事奉行(工事の費用や職人の手配などを取り仕切る役)として城や御所の工事に関わり、建築や庭にも才能を示した。その茶は「きれいさび」と呼ばれる。一翁宗守いちおうそうしゅ1605〜1676(慶長10年〜延宝3年)千宗旦の次男で、武者小路千家(官休庵)の流祖。若いころは塗師(漆器をつくる職人)を仕事にしていたが、のちに千家に戻り、京都に茶室「官休庵」を建てた。片桐石州かたぎりせきしゅう1605〜1673(慶長10年〜延宝元年)大和小泉藩(いまの奈良県大和郡山市)の藩主で、石州流の開祖。四代将軍徳川家綱の茶道師範を務めた。石州流は全国の大名や旗本のあいだに広まった。江岑宗左こうしんそうさ1613〜1672(慶長18年〜寛文12年)千宗旦の三男で、千利休のひ孫。千家の家督と茶室「不審菴」を継いで表千家の基礎を固めた。紀州徳川家に茶堂(大名に仕えて茶の湯を受け持つ役)として仕えた。仙叟宗室せんそうそうしつ1622〜1697(元和8年〜元禄10年)千宗旦の四男。宗旦の隠居屋敷と茶室「今日庵」を継ぎ、裏千家の祖となった。加賀藩の前田家に仕え、金沢の工芸が盛んになるもとをつくった。如心斎じょしんさい1705〜1751(宝永2年〜寛延4年)表千家七代。弟の裏千家八代・一燈宗室らと相談して稽古法の「七事式」を定め、家元制度の基礎を築いた。表千家中興の祖と呼ばれる。松平不昧まつだいらふまい1751〜1818(寛延4年(宝暦元年)〜文政元年)出雲松江藩の七代藩主で、茶人。石州流を学んで不昧流を開いた。名物(由緒のあるすぐれた茶道具)の収集と研究でも知られる。玄々斎げんげんさい1810〜1877(文化7年〜明治10年)裏千家十一代。幕末から明治の大きな変化のなかで、椅子とテーブルを使う「立礼」や茶箱の点前を考案し、建白書「茶道ノ源意」で茶道の価値を訴えた。裏千家中興の時代を築いた人として知られる。井伊直弼いいなおすけ1815〜1860(文化12年〜安政7年(万延元年))彦根藩主で、幕府の大老。茶人としては石州流の一派を開き、茶書『茶湯一会集』で「一期一会」の心得を説いた。岡倉天心おかくらてんしん1863〜1913(文久2年〜大正2年)茶人ではなく、明治の美術指導者・思想家。東京美術学校の創設に力を尽くし、日本美術院をつくった。英文で書いた『茶の本』(The Book of Tea)で、茶道を通して日本の精神文化を欧米に紹介した。