江岑宗左こうしんそうさ
千宗旦の三男で、千利休のひ孫。千家の家督と茶室「不審菴」を継いで表千家の基礎を固めた。紀州徳川家に茶堂(大名に仕えて茶の湯を受け持つ役)として仕えた。
何をした人か
- 正保3年(1646)、隠居した父の宗旦から千家の家督と不審菴を継ぎ、表千家の基礎を固めた。
- 寛永19年(1642)、紀州徳川家に茶堂として出仕した。表千家は幕末まで紀州家の茶頭を務めた。
- 父の宗旦と相談して不審菴を建て替えた。これが今の不審菴の始まりとされる。
- 紀州家に問われて、千家の系譜や利休の事績を『千利休由緒書』にまとめて答えた。
- 聞書の『江岑夏書』をはじめ、覚書や茶会記など多くの茶書を残した。
生涯
千宗旦の三男として生まれた。宗旦は利休の孫で、表千家は千家の三代と数える。母は宗旦が後妻に迎えた宗見で、のちに裏千家をおこす仙叟宗室は同じ母の弟にあたる。
宗旦は清貧を通す一方で、息子たちを茶堂として大名家に仕えさせようと奔走した、と表千家は記す。江岑は寛永19年(1642)、紀州徳川家に茶堂として出仕した。日本大百科全書も、宗旦の奔走で紀州家の茶頭になったと書く。
紀州家への出仕から間もない正保3年(1646)、宗旦は隠居し、江岑に家督を譲って不審菴を継がせた。表千家はこれを今の表千家の始まりとする(日本大百科全書は、譲った年を慶安元年・1648年とする)。宗旦は母屋の北側に隠居屋敷を建てて移り、この屋敷はのちに弟の仙叟に譲られた。江岑の家系が表千家、仙叟の家系が裏千家と呼ばれる。
江岑は父と相談し、受け継いだ一畳半の不審菴を、横に長い三畳台目の茶室に建て替えた(日本大百科全書は正保4年・1647年とする)。慶安元年(1648)には、片桐石州に江戸の茶会へ招かれた。寛文3年(1663)には聞書の『江岑夏書』が成った。紀州家に尋ねられて千家の系譜などを答えた『千利休由緒書』とともに、貴重な文献とされる。
寛文12年(1672)10月27日に没した。五代は、久田宗利と宗旦の娘くれの間に生まれた随流斎が、江岑の養子になって継いだ。江岑のあと、表千家の家元は代々「宗左」を名のる。随流斎は「宗佐」の字を使った。
いまの茶道に残るもの
表千家の家元が代々名のる「宗左」の名は、江岑から始まる。今の不審菴は、江岑が建て替えた茶室に始まるとされる(建物は大正2年・1913年の再建)。江岑は「茶之湯根本、さひた(る)を本ニいたし候」ということばを残した。表千家は、江岑が「さび」を茶の湯の根本として大切にしたことを示すことばとし、さびは簡素で慎ましやかな茶の湯を意味すると説明する。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 江岑はことのほか太っていたため、宗旦に相談して一畳半の不審菴を建て替えたと伝わる。のちの茶人・川上不白が伝えた話として、表千家が紹介している。
年表から
- 1646・1648宗旦の隠居と三千家
関係する人
出典
- omotesenke.jp/about-omotesenke
- omotesenke.jp/chanoyu/nenpyo/nenpyo_e2_j.html
- omotesenke.jp/chanoyu/nenpyo/nenpyo_e3_j.html
- omotesenke.jp/list3/list3-3/list3-3-3
- omotesenke.jp/list4/list4-3/list4-3-4
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_86b.html
- kotobank.jp/word/千宗左
- kotobank.jp/word/表千家
- kotobank.jp/word/不審庵
- kotobank.jp/word/茶頭
- urasenke.or.jp/textc/about/spirit4.html