松風茶の湯の暦と銘

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江岑宗左こうしんそうさ

1613〜1672(慶長18年〜寛文12年) 江戸江岑こうしん、逢源斎ほうげんさいなど生年に諸説ある。表千家の公式サイト・日本人名大辞典・精選版日本国語大辞典は1613年、デジタル大辞泉・日本大百科全書・百科事典マイペディアは1619年とする。代数は表千家の数え方(利休から数えて四代)。辞典には「初代」(精選版日本国語大辞典)、「不審庵1世」(日本大百科全書の「千宗左」の項)と書くものもある。

千宗旦せんのそうたんの三男で、千利休せんのりきゅうのひ孫。千家の家督かとくと茶室「不審菴ふしんあん」を継いで表千家おもてせんけの基礎を固めた。紀州きしゅう徳川家に茶堂さどう(大名に仕えて茶の湯を受け持つ役)として仕えた。

何をした人か

生涯

千宗旦せんのそうたんの三男として生まれた。宗旦そうたんは利休の孫で、表千家おもてせんけは千家の三代と数える。母は宗旦そうたんが後妻に迎えた宗見そうけんで、のちに裏千家うらせんけをおこす仙叟宗室せんそうそうしつは同じ母の弟にあたる。

宗旦そうたんは清貧を通す一方で、息子たちを茶堂さどうとして大名家に仕えさせようと奔走した、と表千家おもてせんけは記す。江岑こうしんは寛永19年(1642)、紀州きしゅう徳川家に茶堂さどうとして出仕しゅっしした。日本大百科全書も、宗旦そうたんの奔走で紀州きしゅう家の茶頭さどうになったと書く。

紀州きしゅう家への出仕しゅっしから間もない正保3年(1646)、宗旦そうたんは隠居し、江岑こうしんに家督かとくを譲って不審菴ふしんあんを継がせた。表千家おもてせんけはこれを今の表千家おもてせんけの始まりとする(日本大百科全書は、譲った年を慶安元年・1648年とする)。宗旦そうたんは母屋の北側に隠居屋敷を建てて移り、この屋敷はのちに弟の仙叟せんそうに譲られた。江岑こうしんの家系が表千家おもてせんけ、仙叟せんそうの家系が裏千家うらせんけと呼ばれる。

江岑こうしんは父と相談し、受け継いだ一畳半の不審菴ふしんあんを、横に長い三畳台目だいめの茶室に建て替えた(日本大百科全書は正保4年・1647年とする)。慶安元年(1648)には、片桐石州かたぎりせきしゅうに江戸の茶会へ招かれた。寛文3年(1663)には聞書ききがきの『江岑夏書こうしんげがき』が成った。紀州きしゅう家に尋ねられて千家の系譜などを答えた『千利休せんのりきゅう由緒書』とともに、貴重な文献とされる。

寛文12年(1672)10月27日に没した。五代は、久田宗利ひさだそうりと宗旦そうたんの娘くれの間に生まれた随流斎ずいりゅうさいが、江岑こうしんの養子になって継いだ。江岑こうしんのあと、表千家おもてせんけの家元は代々「宗左そうさ」を名のる。随流斎ずいりゅうさいは「宗佐そうさ」の字を使った。

いまの茶道に残るもの

表千家おもてせんけの家元が代々名のる「宗左そうさ」の名は、江岑こうしんから始まる。今の不審菴ふしんあんは、江岑こうしんが建て替えた茶室に始まるとされる(建物は大正2年・1913年の再建)。江岑こうしんは「茶之湯根本、さひた(る)を本ニいたし候」ということばを残した。表千家おもてせんけは、江岑こうしんが「さび」を茶の湯の根本として大切にしたことを示すことばとし、さびは簡素で慎ましやかな茶の湯を意味すると説明する。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

関係する人

千宗旦仙叟宗室一翁宗守片桐石州

出典

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