仙叟宗室せんそうそうしつ
千宗旦の四男。宗旦の隠居屋敷と茶室「今日庵」を継ぎ、裏千家の祖となった。加賀藩の前田家に仕え、金沢の工芸が盛んになるもとをつくった。
何をした人か
- 宗旦の隠居屋敷と今日庵を受け継いだ。裏千家はこれを家の始まりとする。
- 承応元年(1652)、加賀藩主の前田利常に茶頭として仕えた。
- 陶工の大樋長左衛門に大樋焼を焼かせ、釜師の宮崎寒雉に茶釜を作らせた。
- 元禄3年(1690)の利休百年忌に、屋敷内に利休堂を建てた。三千家で祖堂を設けた始まりとされる。
- 若いころは医師を志して野間玄琢に医学を学んだが、師の没後、茶の道に専念した。
生涯
千宗旦の四男で、宗旦が後妻の宗見との間にもうけた子。表千家の江岑宗左は同じ母の兄にあたる。初めは医師を志し、江戸前期の医師・野間玄琢に医学を学んで、玄室と名のった。玄琢が亡くなると千家に戻り、茶の道に専念した。
宗旦は晩年、母屋を江岑に譲り、その北側に隠居屋敷を建てて移った。屋敷には今日庵や又隠が建てられ、のちにこの屋敷が仙叟に譲られた。裏千家はこれを家の始まりとする。表千家の年表は、承応2年(1653)に仙叟が今日庵を継いで裏千家の基礎を固めたとする。
承応元年(1652)、加賀藩主の前田利常に茶頭(大名に仕えて茶の湯を受け持つ役)として仕えた。陶工の大樋長左衛門に大樋焼を焼かせ、釜師(茶の湯の釜をつくる職人)の宮崎寒雉に茶釜を作らせた。日本大百科全書は、これが地元の美術工芸が盛んになるもとになったと書く。
元禄3年(1690)は利休の百年忌にあたる。仙叟は京都で百年忌を営み、屋敷内に利休をまつる利休堂を建てた。日本大百科全書は、これを三千家の祖堂(祖師をまつる堂)の始まりと書く。
元禄10年(1697)1月23日、76歳で没した。仙叟のあと、裏千家の家元は家を継ぐと「宗室」を名のる。子の常叟は五代を継いで加賀藩に仕え、のち伊予松山藩の久松家にも仕えたが、32歳で亡くなった。裏千家は幕末まで両藩に仕えた。
いまの茶道に残るもの
裏千家の家元が代々名のる「宗室」の名は、仙叟から続く。「裏千家」という呼び名は、宗旦の隠居屋敷が母屋に対して「うら(裏)の家屋敷」と呼ばれたことから生まれたと考えられている、と裏千家は説明する。仙叟は「心つゝまやかニして、ことは少ニして、心多ニ可通事か」と述べた。表千家は、茶の湯は心慎ましく、ことば少なく、多くは心で通わすものだ、という意味だと解説する。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 仙叟は京都から陶工の大樋長左衛門を連れて金沢へ行き、大樋焼の窯を開かせたと伝わる。
年表から
- 1646・1648宗旦の隠居と三千家