松風茶の湯の暦と銘

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千利休せんのりきゅう

1522〜1591(大永2年〜天正19年) 安土桃山幼名は与四郎。法名は宗易そうえき、号は抛筌斎ほうせんさい。「利休」は1585年に天皇から与えられた居士号こじごう。家業は魚問屋とも、納屋衆(海辺の倉庫を貸し付けていた堺の豪商)ともいう。没日は天正19年2月28日。切腹の理由には定説がない。

安土桃山時代の堺さかいの茶人で、わび茶(簡素さや足りなさの中に美を見いだす茶の湯)を大成した。織田信長おだのぶながと豊臣秀吉とよとみひでよしに茶頭さどう(茶の湯のことを受け持つ役)として仕えた。その茶の湯は、表千家おもてせんけ・裏千家うらせんけ・武者小路千家むしゃこうじせんけの三千家さんせんけに受け継がれている。

何をした人か

生涯

1522年、和泉国いずみのくに堺さかいの今市いまいち町に生まれた。父は田中与兵衛で、家は魚問屋うおどんやを営む有力な町衆まちしゅうだったと表千家おもてせんけは説明する。「千」の姓は千阿弥という人の名に由来するとされ、表千家おもてせんけは千阿弥を利休の祖父とし、裏千家うらせんけは足利将軍家の同朋衆どうぼうしゅうだった遠い先祖と伝える。17歳のころ北向道陳きたむきどうちんに茶を習いはじめ、のち道陳の紹介で武野紹鷗たけのじょうおうに学んだ。1544年に奈良の松屋久政まつやひさまさを招いた茶会が、宗易そうえきの名で記録に残る最初の茶会と思われる。禅にも深く帰依きえし、大林宗套だいりんそうとうや古渓宗陳こけいそうちんらに参禅さんぜんした。

1573年ごろには、信長に茶頭さどうとして仕えていたと思われる。1582年の本能寺ほんのうじの変のあとは豊臣秀吉とよとみひでよしに仕え、側近として政治的にも重い役割を果たした。このころ堺さかいから京都に移り、大徳寺だいとくじの門前に屋敷を構えて「不審菴ふしんあん」の茶室を設けた。

表千家おもてせんけは、天正てんしょう10年代(1580年代)に入ると、利休の茶の湯は大成の域に達したと思われると説明する。1585年、秀吉の関白かんぱく就任を記念する禁中きんちゅう茶会で、正親町天皇おおぎまちてんのうに茶を献じた秀吉の後見こうけんを務め、「利休」の居士号こじごうを与えられた。1587年の北野大茶の湯きたのおおちゃのゆでは、津田宗及つだそうきゅう・今井宗久いまいそうきゅうらとともに演出に関わった。

1591年2月13日、秀吉から堺さかいへ追放され、蟄居ちっきょ(謹慎)を命じられた。京都に呼び戻され、28日に聚楽じゅらく屋敷で切腹した。70歳だった。切腹の原因としては、大徳寺だいとくじ山門さんもんに利休の木像を掲げた件が一般に知られるが、本当の原因は分からないと表千家おもてせんけは説明する。

いまの茶道に残るもの

利休の茶の湯は、孫の宗旦そうたんの三人の息子によって、表千家おもてせんけ・裏千家うらせんけ・武者小路千家むしゃこうじせんけの三千家さんせんけに分かれて伝わっている。表千家おもてせんけは、待庵たいあんに見る二畳の茶室、にじり口、一汁三菜いちじゅうさんさいの簡素な懐石かいせき、長次郎ちょうじろうの楽茶碗らくちゃわんなどを、利休のわびの工夫として挙げる。利休の言葉や逸話は、表千家おもてせんけ四代の江岑宗左こうしんそうさが、おもに父の宗旦そうたんから聞いて書きとめた『逢源斎書ほうげんさいしょ』などに残る。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

関係する人

武野紹鷗村田珠光古田織部千宗旦

出典

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