松風茶の湯の暦と銘

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古田織部ふるたおりべ

1544〜1615(天文13年〜慶長20年) 安土桃山名は重然しげなり、通称は左介さすけ。官位の織部おりべ正(おりべのかみ。おりべのしょうとも読む)にちなんで「織部おりべ」と呼ばれ、「古織こしょく」とも呼ばれた。生年は1544年とする辞典が多いが、日本人名大辞典は1543年とも1544年ともする。享年も72歳または73歳と書かれる。没日は慶長20年6月11日。

安土桃山時代から江戸時代初めの武将で、千利休せんのりきゅうに茶を学んだ茶人。利休七哲りきゅうしちてつ(利休の高弟七人)の一人に数えられる。利休の没後は茶の湯の名人と評され、2代将軍徳川秀忠とくがわひでただに茶の湯を指南した。形のひずんだ茶碗などの「織部おりべ好み」で知られる。

何をした人か

生涯

美濃みの国(いまの岐阜県)に生まれた。初めは織田信長おだのぶながに仕え、信長の死後は豊臣秀吉とよとみひでよしに従った。1585年に従五位下じゅごいげ織部おりべ正に叙任じょにんされ、京都の西岡にしのおかに領地を与えられた。千利休せんのりきゅうとは1582年ごろから親交があった。利休の没後、慶長けいちょうの初めごろには茶の湯の名人と評された。

1598年に秀吉が亡くなると徳川家康とくがわいえやすに仕え、関ヶ原せきがはらの戦いでは徳川方についた。1603年から8年間、小堀遠州こぼりえんしゅうに茶の湯を伝授し(慶長けいちょう伝授)、1610年には江戸城で将軍徳川秀忠とくがわひでただに茶の湯を指南した。

利休のわび茶に対し、織部おりべの茶は、武将らしい豪放ごうほうな大名茶だいみょうちゃだったとされる。表千家は、当時流行した「傾きかぶき」の精神、つまりまともでない異風いふうなものへの興味が、織部おりべの茶に貫かれていたとする。1615年、大坂夏の陣おおさかなつのじんのあと、豊臣方に内通ないつうしたと疑われ、表千家によると将軍徳川秀忠とくがわひでただから切腹を命じられた。6月11日、伏見木幡ふしみこばたの屋敷で自刃じじんした。世界大百科事典は、その原因は不明とする。

いまの茶道に残るもの

織部焼おりべやきの名は、古田織部ふるたおりべの好みとされる特色をもつことによる。美濃みので焼かれ、円形にとらわれない自在な形と、緑色の釉うわぐすりや鉄絵てつえが特色とされる。ただし山川日本史小辞典は、織部おりべ自身が指導した証拠はないとする。京都の藪内やぶのうち家の茶室・燕庵(えんなん。えんあんとも読む)は、織部おりべが大坂の陣に出るとき、藪内やぶのうち家初代の剣仲けんちゅうに譲った茶室と伝わる。いまの建物は、焼失のあと、写しの茶室を1867年に移したもので、織部おりべの作意さくいを伝える。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

関係する人

千利休小堀遠州

出典

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