小堀遠州こぼりえんしゅう
江戸時代初めの大名で、古田織部に茶を学んだ茶人。遠州流茶道の祖。作事奉行(工事の費用や職人の手配などを取り仕切る役)として城や御所の工事に関わり、建築や庭にも才能を示した。その茶は「きれいさび」と呼ばれる。
何をした人か
- 古田織部に茶の湯を学び、のち徳川将軍家の茶の湯指南役となった。
- 1636年、品川の御殿で3代将軍徳川家光に茶を献じた。これをきっかけに「将軍家茶道師範」と呼ばれるようになった。
- 茶室・鎖の間(小座敷と書院の中間にあたる座敷)・書院を一体にした建築で、「きれいさび」の茶を表した。
- 名物道具を選んで格づけし(のちに「中興名物」と呼ばれる)、茶道具に古歌にちなむ銘をつけた。
- 大徳寺孤篷庵の忘筌の露地や、南禅寺金地院の庭は、遠州の確実な作品とされる。
生涯
1579年、近江国坂田郡の小堀村(いまの滋賀県長浜市)に生まれた。父の小堀正次は、豊臣秀吉の弟、秀長の家老だった。1593年ごろから古田織部に茶を学んだ。1615年、師の織部が切腹したとき、遠州は37歳だった。
1604年に父が亡くなると家を継ぎ、のち近江の小室藩主となった。作事奉行として駿府城などの工事に関わった功で、従五位下遠江守に叙せられ、「遠州」と呼ばれるようになった。のち伏見奉行となり、亡くなるまでその職にあった。
後陽成院の御所、二条城、仙洞御所、江戸城など、幕府や朝廷に関わる建築・庭園の工事に、連年のように関わった。茶室では、大徳寺孤篷庵の忘筌が、遠州の好んだ書院風の茶の湯を示す席として知られる。遠州茶道宗家は、遠州が後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物になったと記す。
1636年、品川御殿が完成すると、58歳の遠州は3代将軍家光に茶を献じ、将軍家の茶道指南役として名を確立した。遠州茶道宗家によると、生涯に400回あまりの茶会を開いた。1647年2月、伏見奉行屋敷で69歳で亡くなった。
いまの茶道に残るもの
遠州流茶道は小堀遠州を祖とし、子孫に受け継がれて現在に至る。遠州が選んだ名物は、のちに「中興名物」と呼ばれた。孤篷庵は、遠州が大徳寺に営んだ塔頭(大寺院の敷地内にある小寺院)で、遠州の号にもなっている。1793年に焼失し、松平不昧の援助で再興された。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 10歳のとき、秀長の屋敷に秀吉が茶客として招かれた際に給仕役を務め、そこで初めて千利休から手ほどきを受けたと伝わる。
- 辞世として、「きのふといひ けふとくらして なすことも なきみのゆめの さむるあけぼの」が伝わる。
- 桂離宮をはじめ、後世には多くの建物や庭が「遠州作」と伝わる。遠州茶道宗家は桂離宮を遠州の手がけた仕事に挙げるが、世界大百科事典は、こうした「遠州作」の伝説は、遠州の設計者としての実力にあやかって生まれたものとみている。
年表から
- 1636小堀遠州が将軍家光に献茶する