松風茶の湯の暦と銘

歴史 › 茶人

片桐石州かたぎりせきしゅう

1605〜1673(慶長10年〜延宝元年) 江戸名は貞昌さだまさ。石見守いわみのかみに任じられたことから石州せきしゅうと呼ばれる茶の師を、表千家やデジタル大辞泉・日本人名大辞典などは桑山宗仙とし、日本大百科全書は千道安の弟子の桑山左近貞晴と書く。没日は延宝元年11月20日(日本人名大辞典)。

大和やまと小泉こいずみ藩(いまの奈良県大和郡山やまとこおりやま市)の藩主で、石州流せきしゅうりゅうの開祖。四代将軍徳川家綱いえつなの茶道師範さどうしはんを務めた。石州流せきしゅうりゅうは全国の大名や旗本のあいだに広まった。

何をした人か

生涯

片桐且元かたぎりかつもとの弟・貞隆さだたかの子で、摂津せっつの茨木いばらきで生まれた。名は貞昌さだまさという。寛永元年(1624)に石見守いわみのかみに任じられ、「石州せきしゅう」の名はこれによる。寛永4年(1627)に父が没すると、大和やまと小泉こいずみの藩主を継いだ。

藩主になったあとは、幕府の仕事も多く務めた。寛永10年(1633)に京都の知恩院ちおんいんの工事を担当し、のちに郡奉行こおりぶぎょうなども務めた。慶安元年(1648)には将軍徳川家光いえみつの命で、将軍家の所蔵する道具の分類整理も行った。世界大百科事典は、小堀遠州こぼりえんしゅうの後継者の観があったと書く。

茶は桑山宗仙くわやまそうせんに学んだ。日本大百科全書によれば、利休の長男の道安どうあんから宗仙へ伝わった一畳半の茶法を、自分の個性に合わせて工夫し、一流派を開いた。大徳寺だいとくじの玉舟ぎょくしゅう和尚にも参禅さんぜんした。小堀遠州こぼりえんしゅうらと交遊し、わび茶に独自の見解をもったと、百科事典マイペディアは書く。

寛文元年(1661)に『石州せきしゅう侘びわびの文』を書いた。表千家は、その中の「器物を愛し風情を好むは、形を楽しむ数寄者すきしゃなり。心を楽しむ数寄者すきしゃこそ誠の数寄者すきしゃとはいふべけれ」を、数寄すきの茶の本来の姿を語ったことばと紹介する。寛文5年(1665)11月には、江戸城の黒書院くろしょいんで将軍家綱いえつなや老中ろうじゅうたちに茶を点て、将軍家の茶道師範さどうしはんとなった。指南書『石州三百箇条せきしゅうさんびゃくかじょう』(日本大百科全書は『茶湯ちゃのゆ三百ヶ条』と書く)は、このとき献じたものと伝わる。

寛文3年(1663)、父の菩提ぼだいを弔うため大和やまと小泉こいずみに慈光院じこういんを建て、大徳寺だいとくじの玉舟宗璠ぎょくしゅうそうばんを開山かいさんに迎えた。寛文10年(1670)に三男に家督を譲って隠居し、晩年は慈光院じこういんに隠棲いんせいした。延宝元年(1673)11月に小泉こいずみで没した。墓は京都の大徳寺だいとくじ高林院にある。

いまの茶道に残るもの

石州流せきしゅうりゅうは、石州せきしゅうを開祖とする茶道の流派。石州せきしゅうが将軍家綱いえつなの茶道師範さどうしはんだったことから、全国の大名や旗本のあいだに広まった。石州せきしゅうの子孫のほか門下によっても伝えられ、茶道の流派の中でもっとも多くの派に分かれたことで知られる。松平不昧ふまいの不昧ふまい流も、石州流せきしゅうりゅうの一派とされる。石州せきしゅうが建てた慈光院じこういんは「わびの寺」と通称され、書院と茶室は国の重要文化財、庭園は国の名勝・史跡に指定されている。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

関係する人

小堀遠州古田織部千利休江岑宗左松平不昧井伊直弼

出典

← 一翁宗守江岑宗左 →