松風茶の湯の暦と銘

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松平不昧まつだいらふまい

1751〜1818(寛延4年(宝暦元年)〜文政元年) 江戸名は治郷はるさと。不昧ふまいは号生まれは寛延4年2月14日(日本人名大辞典)。この年のうちに宝暦と改元されたため、宝暦元年生まれと書く辞典もある。世界大百科事典によれば、不昧の号は22歳のときにつけてもらったが、自分で使うようになったのは、隠退して剃髪した56歳のときからである。

出雲いずも松江藩の七代藩主で、茶人。石州流せきしゅうりゅうを学んで不昧ふまい流を開いた。名物めいぶつ(由緒のあるすぐれた茶道具)の収集と研究でも知られる。

何をした人か

生涯

松平宗衍むねのぶの次男として生まれた。明和4年(1767)、父に代わって17歳で松江藩主を継いだ。藩の財政は苦しく、家老の朝日丹波あさひたんばを中心に「御立派おたては」と呼ばれる改革が進められていた。日本大百科全書によれば、改革はいちおう成功したが、朝日丹波あさひたんばが隠居したあと財政はふたたび悪化した。

藩主になった17歳のときから茶を学び、19歳から禅を始めて、茶と禅を一つのものとする茶風をつくった。茶は石州流せきしゅうりゅうの伊佐幸琢いさこうたくに学んだので、不昧ふまい流は石州流せきしゅうりゅうの一派とされる。世界大百科事典は、「不昧ふまい」の号は禅宗で重んじられる書『無門関むもんかん』の語にちなむという、と書く。

明和7年(1770)に『贅言むだごと』を著して、道具を重んじすぎる当世の茶を批判した。その後、藩の財政がよくなると自ら道具の収集に乗り出し、江戸後期で最大の収集家になった。表千家は、不昧ふまいが「名物めいぶつは天下古今の名物めいぶつ、一人一家一世の名物めいぶつならねば保護すべし」と語り、世の宝である名物めいぶつを守り伝えようとしたと紹介する。

集めた名物めいぶつは分類・整理され、『古今名物類聚ここんめいぶつるいじゅ』18巻にまとめられた。名物めいぶつは、利休より前のものを大名物おおめいぶつ、利休の時代のものを名物めいぶつ、小堀遠州こぼりえんしゅうが選んだものを中興名物ちゅうこうめいぶつと呼ぶ。中興名物ちゅうこうめいぶつという呼び名は、この書に初めて見える。陶器の歴史の研究も行い、単なる好事家こうずかに終わらなかった、と日本大百科全書は書く。

文化3年(1806)、56歳で隠退して剃髪ていはつし、このころから「不昧ふまい」の号を使った。小堀遠州こぼりえんしゅうを慕い、大徳寺だいとくじの孤篷庵こほうあんを再興して、同じ所に自らの菩提所ぼだいしょも建てた。文政元年(1818)4月24日に没した。江戸の天徳寺に葬られ、関東大震災のあと、墓は松江の月照寺げっしょうじに移された。

いまの茶道に残るもの

松江市は、不昧ふまいの命日の4月24日を「茶の湯の日」と定め、不昧ふまいを松江に茶の湯の文化を広めた殿様と紹介している。寛政4年(1792)に不昧ふまいの指図で建てられた菅田庵かんでんあん(寛政2年とする説もある)は国の重要文化財で、庭園を含む一帯は史跡・名勝に指定されている。不昧ふまいは「客の心になりて亭主せよ、亭主の心になりて客いたせ」ということばも残した。

年表から

関係する人

小堀遠州片桐石州井伊直弼古田織部

出典

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