松風茶の湯の暦と銘

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玄々斎げんげんさい

1810〜1877(文化7年〜明治10年) 江戸・明治精中宗室せいちゅうそうしつ。号は玄々斎げんげんさい、虚白斎きょはくさいなど代数は裏千家の数え方(利休から数えて十一代)。日本大百科全書も「11世」と書く。百科事典マイペディアは、四代の仙叟を1世として数え、「8世」と書く。没日は明治10年7月11日(日本人名大辞典)。

裏千家うらせんけ十一代。幕末から明治の大きな変化のなかで、椅子とテーブルを使う「立礼りゅうれい」や茶箱ちゃばこの点前てまえを考案し、建白書けんぱくしょ「茶道ノ源意ちゃどうのげんい」で茶道の価値を訴えた。裏千家うらせんけ中興の時代を築いた人として知られる。

何をした人か

生涯

文化7年(1810)、三河みかわ国奥殿おくどの藩の四代藩主・松平乗友のりともの子として生まれた。裏千家うらせんけは、生誕の地を今の愛知県岡崎市とする。10歳で裏千家うらせんけ十代認得斎にんとくさいの跡継ぎの養子となり、認得斎にんとくさいが亡くなると、その長女と結婚した。文政9年(1826)、裏千家うらせんけ十一代の家元を継いだ。兄の又日庵ゆうじつあんは渡辺家の養子となった茶人で、茶道資料館は、兄弟が茶人として親しく交わったと紹介する。

天保11年(1840)の利休二百五十年忌にあたり、表門・玄関・咄々斎とつとつさい・抛筌斎ほうせんさいなどを新築・増築して、裏千家うらせんけの様子を一変させた。幕末から明治の動乱期には、千家せんけの長老として宮中への献茶けんちゃ(貴人に茶を点てて献じること)をはかった。

明治維新で社会のしくみが変わると、大名家に仕えていた茶道の家元などは禄ろく(仕える家から受ける給与)を失い、苦しい立場に立たされた。文明開化のなかで西欧化が進み、古くからの伝統や文化が否定される風潮もあった。玄々斎げんげんさいはこれを憂え、京都府知事に建白書けんぱくしょ「茶道ノ源意ちゃどうのげんい」を出して、茶道の文化的な価値を当時の為政者いせいしゃに認めさせようと努めた。日本人名大辞典は、提出を明治5年(1872)とし、提出先を政府と書く。

立礼りゅうれいは、椅子とテーブルを使う点前てまえである。裏千家うらせんけは、海外からの来訪者をもてなすために考案されたと説明する。点前てまえは点茶盤てんちゃばんというテーブルで行い、点てる人は円椅えんいという丸い椅子に腰掛ける。客も喫架きっかという卓の前で、円椅えんいに腰掛けて茶を飲む。立礼りゅうれいが初めて実際に使われたのは、明治5年(1872)の京都博覧会とされる。考案の時期は、裏千家うらせんけの公式サイトが「江戸末」、辞典は「明治初め」「明治4年」「明治5年」「1874年(明治7)」などと書き分けている。

玄々斎げんげんさいは、それまで大名や裕福な人たちの楽しみや教養だった茶道を、若い世代の教育に役立てようと、女学校に門戸を広く開いた。明治5年(1872)に設立された京都府立の新英学校と女紅場にょこうばに、玄々斎げんげんさいの長女で十二代又玅斎ゆうみょうさいの夫人が茶道師範として迎えられた。裏千家うらせんけは、これを始まりとして、各地の女学校で茶道が教えられるようになったと記す。玄々斎げんげんさいは明治10年(1877)7月11日に没した。

いまの茶道に残るもの

立礼りゅうれいは今では各流派に広まり、屋外やデパートなど、畳のない場所に茶席を設けるときにも使われている。茶箱ちゃばこには元来、決まった点前てまえがなかったが、玄々斎げんげんさいが「雪月花せつげつか」「卯の花点うのはなだて」を考案したことで、裏千家うらせんけには茶箱ちゃばこの好みが多い。裏千家うらせんけの初釜はつがま式(新年に初めて釜をかけて行う茶事)では、玄々斎げんげんさい好みの菓子「菱葩ひしはなびら」がふるまわれる。裏千家うらせんけ宗家そうけの三大忌の一つ「精中せいちゅう・圓能えんのう・無限忌」は、玄々斎げんげんさいと、その孫の十三代圓能斎えんのうさい、十四代無限斎むげんさいをしのぶものである。

年表から

関係する人

千利休仙叟宗室千宗旦岡倉天心

出典

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