如心斎じょしんさい
表千家七代。弟の裏千家八代・一燈宗室らと相談して稽古法の「七事式」を定め、家元制度の基礎を築いた。表千家中興の祖と呼ばれる。
何をした人か
- 弟の一燈宗室や高弟たちと相談し、寛保元年(1741)に七事式を定めた。
- 七事式を行うのに向く、八畳敷の茶室を考案したと伝わる。
- 利休をまつる祖堂(利休堂)を建てた。利休百五十年忌には、大徳寺聚光院に茶室を寄進した。
- 利休以来の千家の道具や記録類を整理し、家元制度の基礎を築いた。
- 遺言を書き残し、直系の長子が家元を継ぐ一子相伝のあり方などを定めた。
生涯
六代覚々斎の長男として生まれた。弟の竺叟宗乾は裏千家の七代、一燈宗室は裏千家の八代を継いだ。日本大百科全書は、「如心」の斎号は紀州侯から賜ったものと書く。
利休の没後百年から百五十年にあたる江戸時代中期は、大坂・京都・江戸で都市文化が栄え、教養や楽しみとして茶の湯を学ぶ人が増えた。利休の子や弟子から分かれた流派も多かった。表千家は、覚々斎と如心斎が利休の精神を守りながら、時代に応じた新しい茶の湯を展開したと記す。
茶の湯が遊芸のようになっていくのを案じた如心斎は、弟の一燈宗室、経済的な援助を受けていた三井八郎右衛門、高弟の川上不白、大徳寺の和尚らと相談を重ね、寛保元年(1741)に七事式を定めた。花月・且座・廻り炭など七つの式からなり、数人が組になって楽しみながら、茶の心と技をみがく稽古法である。
享保19年(1734)、茶杓を三十本削って北野天満宮に寄進した。元文5年(1740)の利休百五十年忌には、大徳寺の聚光院に茶室「閑隠の席」を寄進した。利休をまつる祖堂(利休堂)を建て、利休以来の千家の道具や記録類も整理した。
延享2年(1745)、高弟の川上不白が如心斎の許しを得て、江戸で表千家流の茶の湯を広め始めた。不白はのちに江戸千家の流祖とされる。如心斎は子の啐啄斎に遺言を残し、寛延4年(1751)8月13日に47歳で没した。遺言は、直系の長子が家元を継ぐ一子相伝のあり方や、分家の家筋のあり方を定めたものである。啐啄斎は8歳で家元を継いだ。
いまの茶道に残るもの
七事式は、茶の湯の精神と技術をみがく稽古法である。「七事」の名は、臨済宗で重んじられる書『碧巌録』にある「七事随身」(指導者がそなえるべき七つの徳)の語にちなむ。日本大百科全書は、七事式が確立したことで、両千家の茶道の修練に新しい道が開かれたと書く。如心斎は「利休形の茶といふハ常に古風を忘れず、よろづ目立たぬ様に」ということばを残した。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 如心斎は、時代を経た立派な箱にふさわしい長次郎の黒茶碗を求めようと、先に箱へ「待宵」の銘を書き付け、のちにその茶碗を手に入れたと伝わる。待宵は、十五夜の前の夜のこと。
年表から
- 1741七事式が定められる
関係する人
出典
- omotesenke.jp/about-omotesenke
- omotesenke.jp/chanoyu/nenpyo/nenpyo_e4_j.html
- omotesenke.jp/chanoyu/nenpyo/nenpyo_e5_j.html
- omotesenke.jp/cgi-bin/result.cgi
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_91a.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_91c.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_79a.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_79b.html
- omotesenke.jp/list4/list4-3/list4-3-9
- omotesenke.jp/list4/list4-3/list4-3-4
- kotobank.jp/word/千宗左
- kotobank.jp/word/表千家
- kotobank.jp/word/七事式
- kotobank.jp/word/川上不白
- kotobank.jp/word/宝暦
- urasenke.or.jp/textc/about/spirit4.html