松風茶の湯の暦と銘

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如心斎じょしんさい

1705〜1751(宝永2年〜寛延4年) 江戸号は天然てんねん、如心斎じょしんさい。家元として宗左そうさを名のった生年は、表千家の公式サイトと日本人名大辞典が1705年、日本大百科全書が1706年とする。没日は寛延4年8月13日(日本人名大辞典)。この年のうちに宝暦と改元されたため、表千家の年表は宝暦元年(1751)と書く。代数は表千家の数え方(利休から数えて七代)。

表千家おもてせんけ七代。弟の裏千家うらせんけ八代・一燈宗室いっとうそうしつらと相談して稽古法の「七事式しちじしき」を定め、家元制度の基礎を築いた。表千家おもてせんけ中興の祖と呼ばれる。

何をした人か

生涯

六代覚々斎かくかくさいの長男として生まれた。弟の竺叟宗乾ちくそうそうけんは裏千家うらせんけの七代、一燈宗室いっとうそうしつは裏千家うらせんけの八代を継いだ。日本大百科全書は、「如心」の斎号は紀州きしゅう侯から賜ったものと書く。

利休の没後百年から百五十年にあたる江戸時代中期は、大坂・京都・江戸で都市文化が栄え、教養や楽しみとして茶の湯を学ぶ人が増えた。利休の子や弟子から分かれた流派も多かった。表千家おもてせんけは、覚々斎かくかくさいと如心斎じょしんさいが利休の精神を守りながら、時代に応じた新しい茶の湯を展開したと記す。

茶の湯が遊芸ゆうげいのようになっていくのを案じた如心斎じょしんさいは、弟の一燈宗室いっとうそうしつ、経済的な援助を受けていた三井八郎右衛門みついはちろうえもん、高弟こうていの川上不白かわかみふはく、大徳寺だいとくじの和尚らと相談を重ね、寛保元年(1741)に七事式しちじしきを定めた。花月かげつ・且座さざ・廻り炭まわりずみなど七つの式からなり、数人が組になって楽しみながら、茶の心と技をみがく稽古法である。

享保19年(1734)、茶杓ちゃしゃくを三十本削って北野天満宮きたのてんまんぐうに寄進した。元文5年(1740)の利休百五十年忌には、大徳寺だいとくじの聚光院じゅこういんに茶室「閑隠の席かんいんのせき」を寄進した。利休をまつる祖堂そどう(利休堂)を建て、利休以来の千家の道具や記録類も整理した。

延享2年(1745)、高弟こうていの川上不白かわかみふはくが如心斎じょしんさいの許しを得て、江戸で表千家おもてせんけ流の茶の湯を広め始めた。不白はのちに江戸千家えどせんけの流祖とされる。如心斎じょしんさいは子の啐啄斎そったくさいに遺言を残し、寛延4年(1751)8月13日に47歳で没した。遺言は、直系の長子が家元を継ぐ一子相伝いっしそうでんのあり方や、分家の家筋のあり方を定めたものである。啐啄斎そったくさいは8歳で家元を継いだ。

いまの茶道に残るもの

七事式しちじしきは、茶の湯の精神と技術をみがく稽古法である。「七事」の名は、臨済宗で重んじられる書『碧巌録へきがんろく』にある「七事随身」(指導者がそなえるべき七つの徳)の語にちなむ。日本大百科全書は、七事式しちじしきが確立したことで、両千家の茶道の修練に新しい道が開かれたと書く。如心斎じょしんさいは「利休形りきゅうがたの茶といふハ常に古風を忘れず、よろづ目立たぬ様に」ということばを残した。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

関係する人

千利休江岑宗左仙叟宗室

出典

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