武野紹鷗たけのじょうおう
戦国時代の堺の豪商で、茶の湯の名人。村田珠光の流れをくむ茶の湯を深め、千利休、今井宗久、津田宗及らを育てた。
何をした人か
- 京都で三条西実隆に和歌や古典を学んだ。「冷え枯れる」といった連歌の美意識を、茶の湯に取り入れたといわれる。
- 堺の南宗寺の禅僧、大林宗套に参禅した。宗套が紹鷗の画像に書いた讃には、「茶禅一味」の語が見える。
- 四畳半を基本とする草庵の茶の発展に力を尽くし、三畳などのさらに小さな茶室も考案したとされる。
- 白木の釣瓶(井戸の水をくみ上げる道具)を水指に見立て、竹を削って自ら茶杓を作るなど、白木の清らかな美を茶の湯に加えたと表千家は説明する。
- 千利休、今井宗久、津田宗及、松永久秀らを弟子に持った。
生涯
1502年、堺の有力な町衆(町を形づくって暮らす人びと)の家に生まれたとされる。表千家によると、堺での屋号は皮屋といい、おそらく武具甲冑などに関わる商家で、堺で最も富裕な家だった。若いころ京都にのぼって連歌に打ち込み、歌学の権威だった公家の三条西実隆について古典を学んだ。実隆からは、藤原定家の歌論書『詠歌大概』を授けられた。
茶の湯は、村田珠光の門下の人々、たとえば十四屋宗伍らに学んだという。堺に戻ってからは南宗寺の大林宗套に参禅し、茶の湯に開眼したと表千家は説明する。名物といわれる道具を60種も持っていた。
晩年は京都の四条に、大黒庵という草庵(草ぶきの小屋に見立てた小さな茶室)を設けて、茶事に専念した。日本大百科全書は、紹鷗の参禅が茶人が禅に参じる風を生み、「茶禅一味」が説かれるようにもなったとする。1555年(弘治元年)閏10月29日、54歳で亡くなった。墓は堺の南宗寺の境内にある。利休の高弟、山上宗二は『山上宗二記』に、紹鷗の茶の湯は「正風体」(くせのない普通の風体)の盛りだったと記した。
いまの茶道に残るもの
紹鷗は、村田珠光から千利休へとつながるわび茶の流れの途中に立つ人物とされる。日本大百科全書は、名物の道具を多く持ったことからもうかがえるとして、紹鷗をわび茶への過渡期に位置づける。紹鷗の言葉として、「正直に慎しみ深く、おごらぬさまを、侘びという」が伝わる。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 三条西実隆から『詠歌大概』の序の講義を聞いていたとき、茶の湯の極意を悟ったと伝わる。
年表から
- 16世紀中ごろ武野紹鷗とわびの茶
関係する人
出典
- kotobank.jp/word/武野紹鴎-18677
- omotesenke.jp/list2/list2-2/list2-2-2
- omotesenke.jp/list2/list2-1/list2-1-4
- omotesenke.jp/list3/list3-1/list3-1-1
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_5a.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_6a.html
- urasenke.or.jp/textb/shiru/spirit/spirit3.html
- kotobank.jp/word/侘茶-2094330
- kotobank.jp/word/若狭-664548