松風茶の湯の暦と銘

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村田珠光むらたじゅこう

1423〜1502(応永30年〜文亀2年) 室町幼名は茂吉。号は独盧軒どくろけん。「しゅこう」と読むこともある。生年は1423年とする辞典が多いが、裏千家今日庵のサイトは1422年としている。没日は文亀2年5月15日。確かな伝記は分からず、経歴には不明な点が多い。

室町時代の中ごろの茶人で、わび茶(簡素さや足りなさの中に美を見いだす茶の湯)の祖とされる。大徳寺だいとくじの一休宗純いっきゅうそうじゅんに参禅さんぜんした。弟子に宛てた「心の文」は、茶の湯に初めて心の問題を説いた文として知られる。

何をした人か

生涯

1423年、奈良ならに生まれたとされ、幼名は茂吉という。11歳で奈良ならの称名寺しょうみょうじに入って出家したが、のち寺を出て、連歌師れんがしや闘茶とうちゃ(茶の味を飲み当てて競う遊び)の判者はんじゃなどをしながら諸国を回ったという。のち京都に住んだと伝わる。

将軍家に仕える同朋衆どうぼうしゅうの能阿弥のうあみに、立花りっかや唐物からものの目利きめききを学んだ。日本大百科全書は、能阿弥のうあみから『君台観左右帳記くんだいかんそうちょうき』の相伝そうでんを受けたとする。連歌師れんがしの宗長そうちょうや、香の志野宗信しのそうしんらとも親交があった。一休いっきゅうとの関係では、1493年の大徳寺だいとくじ真珠庵しんじゅあんの「一休いっきゅう和尚十三回忌じゅうさんかいき奉加帳ほうがちょう」に、一貫文を寄付したことが見える。

表千家の解説によると、「心の文」では、和物わものと唐物からものの境を融和ゆうわさせることが大切だと説く。ただし、初心者が備前びぜんや信楽しがらきの焼き物を使って「わび」のつもりになるのは大きな間違いで、唐物からもののよい道具を十分に味わい尽くしてから得られる境地だと述べる。さらに、見せかけでなく心の底から高い品格をそなえたうえで、冷えやせた枯淡こたんの境地に至ってこそ茶の湯はおもしろい、とも言う。

「心の文」は、一の弟子だった大和の土豪どごう、古市澄胤ふるいちちょういん(古市播磨ふるいちはりま)に与えたものとされる。1502年(文亀ぶんき2年)5月15日に亡くなった。弟子の宗珠そうしゅを後継ぎとした。

いまの茶道に残るもの

表千家は、珠光じゅこうの「心の文」を、茶の湯に初めて心の問題を説いたものとして、わび茶の出発点に置いている。裏千家も、珠光じゅこうの精神を武野紹鷗たけのじょうおうが受け継ぎ、千利休せんのりきゅうが茶の湯の文化を大成したと説明する。山川日本史小辞典は、能阿弥のうあみの華やかな茶事に対して、珠光じゅこうは内省的な心の美やわびの境地を強調したとする。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

関係する人

能阿弥武野紹鷗千利休

出典

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