栄西えいさい
鎌倉時代の初めの僧で、日本の臨済宗(禅宗の一派)の祖とされる。宋(中国)から茶の種と、抹茶を飲む新しい飲み方を伝えたとされる。茶の種を持ち帰ったことと『喫茶養生記』を著したことから、「茶祖」とも呼ばれる。
何をした人か
- 比叡山で天台宗と密教を学び、1168年と1187年の二度、宋に渡った。
- 二度目の入宋で臨済宗の禅を学び、1191年に帰国して禅の布教を始めた。
- 博多に聖福寺、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を開き、禅宗を広めた。
- 宋から持ち帰った茶の種を、筑前と肥前の境にある脊振山に植えた。ここが日本の茶の栽培の発祥地とされる。
- 茶の栽培や飲み方、効能を記した『喫茶養生記』を著した。日本最古の茶書とされる。
生涯
備中国(いまの岡山県)の吉備津神社の神職、賀陽氏の家に生まれた。11歳で近くの安養寺の静心に師事し、のち比叡山で天台宗と、天台系の密教(台密)を学んだ。早くから日本の仏法を盛んにしたいと願い、大陸で仏教を学ぶ志を抱いた。
1168年、28歳で宋に渡り、天台山や阿育王山などをめぐって、同じ年のうちに帰国した。1187年、47歳で再び宋に渡り、天台山の万年寺で禅僧に師事した。師に従って天童山に移り、臨済宗黄龍派の禅を受けて、1191年に帰国した。
帰国後は九州で禅を広めた。1194年に京都で布教を始めると、比叡山の反発を受けた朝廷に、禅の布教を止められた。そのあと九州に戻り、博多に聖福寺を建てた。1198年には、禅が国を守るのに役立つと説く『興禅護国論』を著して反論した。
1199年に鎌倉へ下り、北条政子と源頼家の帰依を受けて、寿福寺の開山となった。1202年には頼家の保護を受けて京都に建仁寺を開き、天台・密教・禅をあわせて学ぶ道場とした。1206年には重源の後を継ぎ、東大寺の復興に力を尽くした。
『喫茶養生記』には、1211年の初稿と1214年の再稿がある。1214年2月、将軍源実朝に茶と、茶の効能を説く書を献じたことが『吾妻鏡』に見え、その書がこれと考えられている。栄西は翌1215年、75歳で亡くなった。
いまの茶道に残るもの
栄西が宋から伝えた茶は、緑茶の粉末をかき混ぜて飲むもので、いまの抹茶とよく似ていたと表千家は説明する。栄西が開いた建仁寺では、栄西の誕生日の4月20日に四頭茶会が開かれる。建仁寺は、この茶礼を栄西が禅とともに伝えたものとしている。江戸時代には開山忌の食事の儀礼の一部として行われ、建仁寺の年表では、4月20日の四頭茶会は1954年に始まったとある。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 1214年、二日酔いに苦しむ将軍源実朝に栄西が茶を献じると、すっかり治ったと伝わる。『吾妻鏡』に記された話で、栄西はこのとき茶の効能を説く書も献じたという。
年表から
- 1191栄西が宋から帰国する
- 1214『喫茶養生記』が書かれる