古田織部ふるたおりべ
安土桃山時代から江戸時代初めの武将で、千利休に茶を学んだ茶人。利休七哲(利休の高弟七人)の一人に数えられる。利休の没後は茶の湯の名人と評され、2代将軍徳川秀忠に茶の湯を指南した。形のひずんだ茶碗などの「織部好み」で知られる。
何をした人か
- 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、1585年に従五位下織部正に叙任された。
- 千利休に茶を学び、「利休七哲」に数えられる。七人の顔ぶれは時期によって変わるが、織部は最も古い記録から名が挙がっている。
- 利休の没後、茶の湯の名人と評され、1610年には江戸城で2代将軍徳川秀忠に茶の湯を指南した。
- 小堀遠州をはじめ、多くの大名の指導にあたった。
- 形のひずんだ沓形の茶碗、窓の多い茶室、景色を好んだ露地などに、「織部好み」と呼ばれる作意を示した。
生涯
美濃国(いまの岐阜県)に生まれた。初めは織田信長に仕え、信長の死後は豊臣秀吉に従った。1585年に従五位下織部正に叙任され、京都の西岡に領地を与えられた。千利休とは1582年ごろから親交があった。利休の没後、慶長の初めごろには茶の湯の名人と評された。
1598年に秀吉が亡くなると徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川方についた。1603年から8年間、小堀遠州に茶の湯を伝授し(慶長伝授)、1610年には江戸城で将軍徳川秀忠に茶の湯を指南した。
利休のわび茶に対し、織部の茶は、武将らしい豪放な大名茶だったとされる。表千家は、当時流行した「傾き」の精神、つまりまともでない異風なものへの興味が、織部の茶に貫かれていたとする。1615年、大坂夏の陣のあと、豊臣方に内通したと疑われ、表千家によると将軍徳川秀忠から切腹を命じられた。6月11日、伏見木幡の屋敷で自刃した。世界大百科事典は、その原因は不明とする。
いまの茶道に残るもの
織部焼の名は、古田織部の好みとされる特色をもつことによる。美濃で焼かれ、円形にとらわれない自在な形と、緑色の釉や鉄絵が特色とされる。ただし山川日本史小辞典は、織部自身が指導した証拠はないとする。京都の藪内家の茶室・燕庵(えんなん。えんあんとも読む)は、織部が大坂の陣に出るとき、藪内家初代の剣仲に譲った茶室と伝わる。いまの建物は、焼失のあと、写しの茶室を1867年に移したもので、織部の作意を伝える。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 利休が秀吉の怒りを受けて堺へ下るとき、淀の舟着場で、弟子の古田織部と細川三斎が見送ったという逸話が伝わる。
- 自刃にのぞんで、「かくなる上は、申し開きも見苦し」と言ったと伝わる。
年表から
- 1610古田織部が将軍秀忠に茶を指南する