村田珠光むらたじゅこう
室町時代の中ごろの茶人で、わび茶(簡素さや足りなさの中に美を見いだす茶の湯)の祖とされる。大徳寺の一休宗純に参禅した。弟子に宛てた「心の文」は、茶の湯に初めて心の問題を説いた文として知られる。
何をした人か
- 奈良の称名寺に入ったが、のち寺を出て京都に上り、茶人になったと伝わる。
- 一休宗純に参禅し、「仏法も茶湯の中にあり」と悟って、茶禅一味の境地に達したとされる。
- 「心の文」で、和物(日本の道具)と唐物(中国の道具)の境を融和させることが大切だと説いた。
- 「月も雲間のなきは嫌にて候」という言葉を残し、雲のない満月より、雲の間に見え隠れする月を美しいとした。
- 能阿弥に立花や唐物の目利き(鑑定)を学び、『君台観左右帳記』の相伝を受けたとされる。
生涯
1423年、奈良に生まれたとされ、幼名は茂吉という。11歳で奈良の称名寺に入って出家したが、のち寺を出て、連歌師や闘茶(茶の味を飲み当てて競う遊び)の判者などをしながら諸国を回ったという。のち京都に住んだと伝わる。
将軍家に仕える同朋衆の能阿弥に、立花や唐物の目利きを学んだ。日本大百科全書は、能阿弥から『君台観左右帳記』の相伝を受けたとする。連歌師の宗長や、香の志野宗信らとも親交があった。一休との関係では、1493年の大徳寺真珠庵の「一休和尚十三回忌奉加帳」に、一貫文を寄付したことが見える。
表千家の解説によると、「心の文」では、和物と唐物の境を融和させることが大切だと説く。ただし、初心者が備前や信楽の焼き物を使って「わび」のつもりになるのは大きな間違いで、唐物のよい道具を十分に味わい尽くしてから得られる境地だと述べる。さらに、見せかけでなく心の底から高い品格をそなえたうえで、冷えやせた枯淡の境地に至ってこそ茶の湯はおもしろい、とも言う。
「心の文」は、一の弟子だった大和の土豪、古市澄胤(古市播磨)に与えたものとされる。1502年(文亀2年)5月15日に亡くなった。弟子の宗珠を後継ぎとした。
いまの茶道に残るもの
表千家は、珠光の「心の文」を、茶の湯に初めて心の問題を説いたものとして、わび茶の出発点に置いている。裏千家も、珠光の精神を武野紹鷗が受け継ぎ、千利休が茶の湯の文化を大成したと説明する。山川日本史小辞典は、能阿弥の華やかな茶事に対して、珠光は内省的な心の美やわびの境地を強調したとする。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 一休から印可(師が悟りを認めた証し)として、中国の禅僧、圜悟克勤の墨蹟(禅僧の筆跡)を与えられ、これを初めて茶の掛物に用いたと伝わる。このことから「墨蹟開山」と呼ばれる。
- 珠光の言葉として、「藁屋に名馬繋ぎたるがよし」が『山上宗二記』に見える。粗末な中にあって、名馬のように美しく心豊かであることをいう言葉で、珠光のわびの精神を表すとされる。
年表から
- 15世紀末村田珠光とわび茶
関係する人
出典
- kotobank.jp/word/村田珠光-17039
- urasenke.or.jp/textb/shiru/spirit/spirit3.html
- omotesenke.jp/list2/list2-2/list2-2-1
- omotesenke.jp/list2/list2-1/list2-1-4
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_1a.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_2a.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_3a.html
- omotesenke.jp/list2/list2-1/list2-1-3
- kotobank.jp/word/印可-437145
- kotobank.jp/word/墨跡-132738
- kotobank.jp/word/圜悟克勤-38117