松風茶の湯の暦と銘

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能阿弥のうあみ

1397〜1471(応永4年〜文明3年) 室町名は真能しんのう、号は秀峰しゅうほう。姓は中尾なかお。「能阿弥のうあみ」は、同朋衆どうぼうしゅうが名のった「阿弥号あみごう」の一つ。生没年は辞典で一致している。仕えた将軍は足利義教・義政の二代とする辞典が多いが、日本大百科全書は義持・義教・義政の三代とする。辞典によって「真能」と「能阿弥」のどちらを見出しにするかも分かれる(日本大百科全書は「真能」の項に解説を置く)。

室町時代の中ごろ、将軍の足利義教あしかがよしのり・義政よしまさに仕えた同朋衆どうぼうしゅう(将軍のそばで雑用や美術工芸品の鑑定、芸能などを受け持った僧の姿の人々)。中国から渡ってきた美術工芸品(唐物からもの)の鑑定や座敷の飾り方を受け持ち、水墨画すいぼくがや連歌れんがにも優れた。

何をした人か

生涯

1397年に生まれた。姓は中尾なかおで、真能しんのうとも称した。足利義教あしかがよしのり・義政よしまさに仕える同朋衆どうぼうしゅうとなった。1436年(永享えいきょう8年)以降の活躍の記録が残る。

将軍家の唐物からものや書画の管理、表装ひょうそう、鑑定、座敷の飾りつけを受け持った。唐物からものとは、中国から舶載はくさいされた美術工芸品のことをいう。『君台観左右帳記くんだいかんそうちょうき』は、中国絵画の作者や座敷飾りの方式、道具について記した書で、能阿弥のうあみがほぼ整えたものを孫の相阿弥そうあみが大成したと伝わる。ただし精選版日本国語大辞典は、能阿弥のうあみの奥書おくがきの日付(1476年)が能阿弥のうあみの没後にあたるため疑わしく、偽書ぎしょとする説もあると書く。

水墨画すいぼくがは牧谿もっけいの影響が強く、柔らかな描線びょうせんと、しっとりした墨の色が特徴とされる。連歌れんがでは宗祇そうぎの七賢しちけんの一人に数えられ、作品は『竹林抄ちくりんしょう』『新撰菟玖波集しんせんつくばしゅう』に収められた。茶の湯では、実務と指導にあたったとされる。旺文社日本史事典は能阿弥のうあみを「東山流茶道の祖」とし、書院しょいん飾りの法式を考え、台子だいす飾りの様式を定めたとする。日本大百科全書によると、のちの村田珠光むらたじゅこうは能阿弥のうあみから『君台観左右帳記くんだいかんそうちょうき』の相伝そうでんを受けた。

1468年(応仁おうにん2年)の年紀ねんきがある「白衣観音びゃくえかんのん図」が、能阿弥のうあみの作の基準作とされる。1471年(文明ぶんめい3年)8月、75歳で亡くなった。子の芸阿弥げいあみ、孫の相阿弥そうあみも同じ職を継ぎ、三人は「三阿弥さんあみ」と呼ばれる。

いまの茶道に残るもの

座敷の飾り方を記した秘伝書ひでんしょ『君台観左右帳記くんだいかんそうちょうき』は、能阿弥のうあみの著と伝わり、孫の相阿弥そうあみが大成したとされる。表千家は、こうした幕府の部屋飾りを定めた書に、茶の湯を準備する部屋の様子や道具が記されるようになったことを、「茶の湯」が成り立っていく時代の動きとして挙げる。旺文社日本史事典は、能阿弥のうあみらの東山流の茶が、のちに千利休せんのりきゅうに吸収されたとする。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

関係する人

村田珠光千利休

出典

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