松風茶の湯の暦と銘

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小堀遠州こぼりえんしゅう

1579〜1647(天正7年〜正保4年) 江戸名は政一まさかず、正一まさかずとも書く。幼名は作介さくすけ。号は宗甫そうほ、孤篷庵こほうあん、大有だいゆう。官位の遠江守とおとうみのかみから「遠州えんしゅう」と呼ばれた。遠江守に叙せられた年を、日本大百科全書は1604年、ブリタニカ国際大百科事典と遠州茶道宗家は1608年とする。没日は2月6日(山川日本史小辞典・日本人名大辞典・遠州茶道宗家)とされるが、ブリタニカ国際大百科事典は2月7日とする。

江戸時代初めの大名で、古田織部ふるたおりべに茶を学んだ茶人。遠州流えんしゅうりゅう茶道の祖。作事奉行さくじぶぎょう(工事の費用や職人の手配などを取り仕切る役)として城や御所の工事に関わり、建築や庭にも才能を示した。その茶は「きれいさび」と呼ばれる。

何をした人か

生涯

1579年、近江国おうみのくに坂田郡さかたぐんの小堀村こぼりむら(いまの滋賀県長浜ながはま市)に生まれた。父の小堀正次こぼりまさつぐは、豊臣秀吉の弟、秀長ひでながの家老かろうだった。1593年ごろから古田織部ふるたおりべに茶を学んだ。1615年、師の織部が切腹したとき、遠州えんしゅうは37歳だった。

1604年に父が亡くなると家を継ぎ、のち近江おうみの小室こむろ藩主となった。作事奉行さくじぶぎょうとして駿府城すんぷじょうなどの工事に関わった功で、従五位下遠江守とおとうみのかみに叙せられ、「遠州えんしゅう」と呼ばれるようになった。のち伏見奉行ふしみぶぎょうとなり、亡くなるまでその職にあった。

後陽成院ごようぜいいんの御所、二条城にじょうじょう、仙洞御所せんとうごしょ、江戸城など、幕府や朝廷に関わる建築・庭園の工事に、連年のように関わった。茶室では、大徳寺だいとくじ孤篷庵こほうあんの忘筌ぼうせんが、遠州えんしゅうの好んだ書院しょいん風の茶の湯を示す席として知られる。遠州えんしゅう茶道宗家そうけは、遠州えんしゅうが後水尾天皇ごみずのおてんのうをはじめとする寛永かんえい文化サロンの中心人物になったと記す。

1636年、品川しながわ御殿ごてんが完成すると、58歳の遠州えんしゅうは3代将軍家光いえみつに茶を献じ、将軍家の茶道指南しなん役として名を確立した。遠州えんしゅう茶道宗家そうけによると、生涯に400回あまりの茶会を開いた。1647年2月、伏見奉行ふしみぶぎょう屋敷で69歳で亡くなった。

いまの茶道に残るもの

遠州流えんしゅうりゅう茶道は小堀遠州こぼりえんしゅうを祖とし、子孫に受け継がれて現在に至る。遠州えんしゅうが選んだ名物めいぶつは、のちに「中興名物ちゅうこうめいぶつ」と呼ばれた。孤篷庵こほうあんは、遠州えんしゅうが大徳寺だいとくじに営んだ塔頭たっちゅう(大寺院の敷地内にある小寺院)で、遠州えんしゅうの号にもなっている。1793年に焼失し、松平不昧まつだいらふまいの援助で再興された。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

関係する人

古田織部千利休片桐石州松平不昧

出典

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