松風茶の湯の暦と銘

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一翁宗守いちおうそうしゅ

1605〜1676(慶長10年〜延宝3年) 江戸似休斎じきゅうさい。若いころは吉岡甚右衛門よしおかじんうえもんと名のった生年に諸説ある。武者小路千家の公式サイトと表千家の年表は1605〜1676年とする。日本大百科全書と百科事典マイペディアは1593〜1675年、日本人名大辞典は1593〜1676年とする。没日は、日本人名大辞典によれば延宝3年12月19日。表千家の年表は延宝4年(1676)の項に載せる。代数は武者小路千家の数え方(利休から数えて四代、官休庵の初代)。辞典には「官休庵1世」(日本大百科全書)、「初代」(日本人名大辞典)と書くものもある。

千宗旦せんのそうたんの次男で、武者小路千家むしゃこうじせんけ(官休庵かんきゅうあん)の流祖。若いころは塗師ぬし(漆器をつくる職人)を仕事にしていたが、のちに千家に戻り、京都に茶室「官休庵かんきゅうあん」を建てた。

何をした人か

生涯

千宗旦せんのそうたんの次男。兄の宗拙そうせつとともに宗旦そうたんの先妻の子で、後妻の子である江岑こうしんや仙叟せんそうとは母が違う。一時は兄と同じく父のもとを離れ、吉岡甚右衛門よしおかじんうえもんと名のって塗師ぬしを仕事にした。辞典には、塗師ぬしの家の養子になったと書くものもある。

やがて兄弟たちの勧めで塗師ぬしの技を初代中村宗哲なかむらそうてつに譲り、千家に戻った。日本大百科全書は、宗哲そうてつを一翁いちおうの娘婿と書く。今の武者小路千家むしゃこうじせんけの地に茶室「官休庵かんきゅうあん」を建て、茶人としての道を歩み始めた。官休庵かんきゅうあんを建てたのは寛文7年(1667)と伝わる。

はじめ近衞家このえけ(陽明家ようめいけ)の、のちに讃岐さぬき高松藩の茶道指南の地位にあった。日本大百科全書は、高松の松平家の茶頭さどうになったのを寛文6年(1666)とし、まもなく辞めたと書く。武者小路千家むしゃこうじせんけでは、一翁いちおうのあとも歴代の家元が高松藩の茶道指南を務め、一指斎いっしさいの代まで続いた。

「官休庵かんきゅうあん」の名の由来には、古くから諸説がある。武者小路千家むしゃこうじせんけは、一翁いちおうが高松藩の茶頭さどうの仕事を退き、官をやめた侘びわび人の庵という意味と考えられている、と説明する。安永3年(1774)、一翁いちおうの百年忌に大徳寺だいとくじの和尚が書いた詩句も、茶に専念するために官を辞めたのだろう、と解釈している。

号の似休斎じきゅうさいについて、武者小路千家むしゃこうじせんけは、利休を慕い、利休を追い求めた一翁いちおうの姿がしのばれると説明する。一翁いちおうは「数寄すきの道は、りこうになくぬるくなく、唯取廻しのきれい成様ニ嗜事専要候」ということばを残した。表千家は、茶の道は利口でもぬるくもなく、ただ扱いを清く潔くたしなむことが大切だと説いたことばと解説する。

いまの茶道に残るもの

武者小路千家むしゃこうじせんけという名は、官休庵かんきゅうあんの所在地の名から来ている。茶室の官休庵かんきゅうあんは、武者小路千家むしゃこうじせんけの代名詞にもなっている。今の官休庵かんきゅうあんは大正15年(1926)の再建で、点前てまえの畳と客の畳のあいだに幅約15センチの板を入れ、主客にゆとりを持たせているのが特徴である。「宗守そうしゅ」の名は一翁いちおうに始まり、歴代の当主が襲名している。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

関係する人

千宗旦江岑宗左仙叟宗室千利休

出典

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