一翁宗守いちおうそうしゅ
千宗旦の次男で、武者小路千家(官休庵)の流祖。若いころは塗師(漆器をつくる職人)を仕事にしていたが、のちに千家に戻り、京都に茶室「官休庵」を建てた。
何をした人か
- 若いころは父のもとを離れ、吉岡甚右衛門と名のって塗師を仕事にした。
- 兄弟たちの勧めで塗師の技を初代中村宗哲に譲り、千家に戻って茶室「官休庵」を建てた。
- はじめ近衞家(陽明家)の、のちに讃岐高松藩の茶道指南の地位にあった。
- 参禅の師である大徳寺の玉舟和尚に「宗守」の名をつけてもらった。歴代の当主はこの名を襲名している。
- 弟の江岑・仙叟とともに三千家の基礎を築き、武者小路千家をおこした。
生涯
千宗旦の次男。兄の宗拙とともに宗旦の先妻の子で、後妻の子である江岑や仙叟とは母が違う。一時は兄と同じく父のもとを離れ、吉岡甚右衛門と名のって塗師を仕事にした。辞典には、塗師の家の養子になったと書くものもある。
やがて兄弟たちの勧めで塗師の技を初代中村宗哲に譲り、千家に戻った。日本大百科全書は、宗哲を一翁の娘婿と書く。今の武者小路千家の地に茶室「官休庵」を建て、茶人としての道を歩み始めた。官休庵を建てたのは寛文7年(1667)と伝わる。
はじめ近衞家(陽明家)の、のちに讃岐高松藩の茶道指南の地位にあった。日本大百科全書は、高松の松平家の茶頭になったのを寛文6年(1666)とし、まもなく辞めたと書く。武者小路千家では、一翁のあとも歴代の家元が高松藩の茶道指南を務め、一指斎の代まで続いた。
「官休庵」の名の由来には、古くから諸説がある。武者小路千家は、一翁が高松藩の茶頭の仕事を退き、官をやめた侘び人の庵という意味と考えられている、と説明する。安永3年(1774)、一翁の百年忌に大徳寺の和尚が書いた詩句も、茶に専念するために官を辞めたのだろう、と解釈している。
号の似休斎について、武者小路千家は、利休を慕い、利休を追い求めた一翁の姿がしのばれると説明する。一翁は「数寄の道は、りこうになくぬるくなく、唯取廻しのきれい成様ニ嗜事専要候」ということばを残した。表千家は、茶の道は利口でもぬるくもなく、ただ扱いを清く潔くたしなむことが大切だと説いたことばと解説する。
いまの茶道に残るもの
武者小路千家という名は、官休庵の所在地の名から来ている。茶室の官休庵は、武者小路千家の代名詞にもなっている。今の官休庵は大正15年(1926)の再建で、点前の畳と客の畳のあいだに幅約15センチの板を入れ、主客にゆとりを持たせているのが特徴である。「宗守」の名は一翁に始まり、歴代の当主が襲名している。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 「官休庵」の名は、一翁が父の宗旦と相談して茶室を造ったとき、父につけてもらった名と伝わる。
- 晩年は今の武者小路千家の地で、悠々自適、茶三昧の暮らしを送ったと伝わる。
年表から
- 1646・1648宗旦の隠居と三千家
関係する人
出典
- mushakouji-senke.or.jp/history
- mushakouji-senke.or.jp/tearoom
- mushakouji-senke.or.jp
- omotesenke.jp/chanoyu/nenpyo/nenpyo_e3_j.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_86a.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_86b.html
- omotesenke.jp/list3/list3-3/list3-3-3
- kotobank.jp/word/千宗守
- kotobank.jp/word/武者小路千家
- kotobank.jp/word/官休庵
- kotobank.jp/word/塗師
- urasenke.or.jp/textc/about/spirit4.html