井伊直弼いいなおすけ
彦根藩主で、幕府の大老。茶人としては石州流の一派を開き、茶書『茶湯一会集』で「一期一会」の心得を説いた。
何をした人か
- 17歳から約15年、彦根の「埋木舎」で暮らし、禅・茶の湯・国学などの修養に打ち込んだ。
- 石州流の茶を学び、のちに自ら石州流の一派を開いた。
- 『茶湯一会集』を著し、茶会には「一期一会」の心で臨むべきだと説いた。
- 嘉永3年(1850)に彦根藩主を継ぎ、安政5年(1858)に幕府の大老になった。
- 楽焼の茶碗など、茶道具を自ら手造りした。
生涯
彦根藩主だった井伊直中の十四男として生まれた。家を継ぐ立場になかったため、17歳から、自ら「埋木舎」と名づけた尾末町の屋敷に住んだ。兄で藩主の直亮の養子になるまでの15年間、部屋住みの身で、禅・居合・兵学・茶道などの教養を積み、国学も学んだ。
茶は石州流を学び、多くの茶書を読んだ。『南方録』を通じて、千利休らの茶の精神を身につけていったとされる。茶の湯本来のあるべき姿を論理的に書いたのが『茶湯一会集』で、茶の湯の心得は「一期一会」と「独座観念」の語に集約されると説く。成立は、弘化2年(1845)ごろとする辞典と、嘉永元年(1848)以前に草稿ができ、安政5年(1858)に完本になったとする辞典がある。
「一期一会」は、『山上宗二記』にある「一期に一度の会」に由来する語である。彦根城博物館は、同じ顔ぶれで何度茶会を開いても、今日の茶会は二度と繰り返さない一生に一度の会だと思い、真剣に臨む心構えを示したことばと説明する。日本大百科全書は、直弼が『茶湯一会集』でこの語を使い、その精神を強調したと書く。
弘化3年(1846)、兄の直元が亡くなり、代わりに藩主の世継ぎとなった。嘉永3年(1850)、直亮の死を受けて彦根藩主を継いだ。安政5年(1858)4月に大老となり、6月には勅許(天皇の許可)を得ないまま日米修好通商条約に調印した。反対派を処罰した安政の大獄を起こしたことでも知られる。
安政7年(1860)3月3日、江戸城の桜田門外で、水戸・薩摩の浪士らに襲われて亡くなった。彦根城博物館は、直弼の評価は、強権的な政治で反対派を弾圧した「悪人」と、日本を開国に導いた偉人とに、両極端に分かれてきたと述べる。
いまの茶道に残るもの
「一期一会」は、茶会の心得から、人との出会いを大切にするという一般の言葉としても使われるようになった。文化庁の報告書は、『茶湯一会集』で確立した「一期一会」「独座観念」といった考え方を近世の茶道理論の到達点とし、現代まで茶道界で重んじられる規範と書く。直弼が手造りした楽焼の茶碗は彦根城博物館に所蔵されており、表千家は、直弼の手造りの道具に数寄大名(茶の湯を好む大名)の風格を感じさせるものが多いと評する。
年表から
- 1845〜58井伊直弼『茶湯一会集』