松風茶の湯の暦と銘

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井伊直弼いいなおすけ

1815〜1860(文化12年〜安政7年(万延元年)) 江戸茶名は宗観そうかん。官職名は掃部頭かもんのかみ生まれた月日は、日本人名大辞典・山川日本史小辞典・ブリタニカ国際大百科事典が文化12年10月29日、日本大百科全書が12月29日とする。彦根藩主としての代数は資料で異なり、彦根城博物館・日本大百科全書・世界大百科事典は13代、日本人名大辞典は15代、表千家は十六代と書く。

彦根ひこね藩主で、幕府の大老たいろう。茶人としては石州流せきしゅうりゅうの一派を開き、茶書『茶湯一会集ちゃのゆいちえしゅう』で「一期一会いちごいちえ」の心得を説いた。

何をした人か

生涯

彦根ひこね藩主だった井伊直中なおなかの十四男として生まれた。家を継ぐ立場になかったため、17歳から、自ら「埋木舎うもれぎのや」と名づけた尾末町おすえまちの屋敷に住んだ。兄で藩主の直亮なおあきの養子になるまでの15年間、部屋住みへやずみの身で、禅・居合いあい・兵学へいがく・茶道などの教養を積み、国学も学んだ。

茶は石州流せきしゅうりゅうを学び、多くの茶書を読んだ。『南方録なんぽうろく』を通じて、千利休せんのりきゅうらの茶の精神を身につけていったとされる。茶の湯本来のあるべき姿を論理的に書いたのが『茶湯一会集ちゃのゆいちえしゅう』で、茶の湯の心得は「一期一会いちごいちえ」と「独座観念どくざかんねん」の語に集約されると説く。成立は、弘化2年(1845)ごろとする辞典と、嘉永元年(1848)以前に草稿ができ、安政5年(1858)に完本になったとする辞典がある。

「一期一会いちごいちえ」は、『山上宗二記やまのうえのそうじき』にある「一期いちごに一度の会」に由来する語である。彦根ひこね城博物館は、同じ顔ぶれで何度茶会を開いても、今日の茶会は二度と繰り返さない一生に一度の会だと思い、真剣に臨む心構えを示したことばと説明する。日本大百科全書は、直弼が『茶湯一会集ちゃのゆいちえしゅう』でこの語を使い、その精神を強調したと書く。

弘化3年(1846)、兄の直元が亡くなり、代わりに藩主の世継ぎとなった。嘉永3年(1850)、直亮なおあきの死を受けて彦根ひこね藩主を継いだ。安政5年(1858)4月に大老たいろうとなり、6月には勅許ちょっきょ(天皇の許可)を得ないまま日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくに調印した。反対派を処罰した安政の大獄あんせいのたいごくを起こしたことでも知られる。

安政7年(1860)3月3日、江戸城の桜田門外さくらだもんがいで、水戸・薩摩の浪士ろうしらに襲われて亡くなった。彦根ひこね城博物館は、直弼の評価は、強権的な政治で反対派を弾圧した「悪人」と、日本を開国に導いた偉人とに、両極端に分かれてきたと述べる。

いまの茶道に残るもの

「一期一会いちごいちえ」は、茶会の心得から、人との出会いを大切にするという一般の言葉としても使われるようになった。文化庁の報告書は、『茶湯一会集ちゃのゆいちえしゅう』で確立した「一期一会いちごいちえ」「独座観念どくざかんねん」といった考え方を近世の茶道理論の到達点とし、現代まで茶道界で重んじられる規範と書く。直弼が手造りした楽焼らくやきの茶碗は彦根ひこね城博物館に所蔵されており、表千家は、直弼の手造りの道具に数寄すき大名(茶の湯を好む大名)の風格を感じさせるものが多いと評する。

年表から

関係する人

片桐石州松平不昧千利休小堀遠州

出典

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