片桐石州かたぎりせきしゅう
大和小泉藩(いまの奈良県大和郡山市)の藩主で、石州流の開祖。四代将軍徳川家綱の茶道師範を務めた。石州流は全国の大名や旗本のあいだに広まった。
何をした人か
- 千利休の長男・千道安の弟子である桑山宗仙に茶を学び、石州流を開いた。
- 寛文5年(1665)、江戸城で将軍家綱らに茶を点て、将軍家の茶道師範となった。
- 茶の指南書『石州三百箇条』を将軍に献じたと伝わる。
- 寛文3年(1663)、亡き父の菩提を弔うため、大和小泉に慈光院を建てた。
- 幕府の命で京都の知恩院の工事を担当するなど、土木や建築の役目も務めた。
生涯
片桐且元の弟・貞隆の子で、摂津の茨木で生まれた。名は貞昌という。寛永元年(1624)に石見守に任じられ、「石州」の名はこれによる。寛永4年(1627)に父が没すると、大和小泉の藩主を継いだ。
藩主になったあとは、幕府の仕事も多く務めた。寛永10年(1633)に京都の知恩院の工事を担当し、のちに郡奉行なども務めた。慶安元年(1648)には将軍徳川家光の命で、将軍家の所蔵する道具の分類整理も行った。世界大百科事典は、小堀遠州の後継者の観があったと書く。
茶は桑山宗仙に学んだ。日本大百科全書によれば、利休の長男の道安から宗仙へ伝わった一畳半の茶法を、自分の個性に合わせて工夫し、一流派を開いた。大徳寺の玉舟和尚にも参禅した。小堀遠州らと交遊し、わび茶に独自の見解をもったと、百科事典マイペディアは書く。
寛文元年(1661)に『石州侘びの文』を書いた。表千家は、その中の「器物を愛し風情を好むは、形を楽しむ数寄者なり。心を楽しむ数寄者こそ誠の数寄者とはいふべけれ」を、数寄の茶の本来の姿を語ったことばと紹介する。寛文5年(1665)11月には、江戸城の黒書院で将軍家綱や老中たちに茶を点て、将軍家の茶道師範となった。指南書『石州三百箇条』(日本大百科全書は『茶湯三百ヶ条』と書く)は、このとき献じたものと伝わる。
寛文3年(1663)、父の菩提を弔うため大和小泉に慈光院を建て、大徳寺の玉舟宗璠を開山に迎えた。寛文10年(1670)に三男に家督を譲って隠居し、晩年は慈光院に隠棲した。延宝元年(1673)11月に小泉で没した。墓は京都の大徳寺高林院にある。
いまの茶道に残るもの
石州流は、石州を開祖とする茶道の流派。石州が将軍家綱の茶道師範だったことから、全国の大名や旗本のあいだに広まった。石州の子孫のほか門下によっても伝えられ、茶道の流派の中でもっとも多くの派に分かれたことで知られる。松平不昧の不昧流も、石州流の一派とされる。石州が建てた慈光院は「わびの寺」と通称され、書院と茶室は国の重要文化財、庭園は国の名勝・史跡に指定されている。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 将軍家綱の茶道師範となって、「剣は柳生、茶は石州」と評されたと伝わる。
年表から
- 1665片桐石州と武家の茶