松平不昧まつだいらふまい
出雲松江藩の七代藩主で、茶人。石州流を学んで不昧流を開いた。名物(由緒のあるすぐれた茶道具)の収集と研究でも知られる。
何をした人か
- 明和4年(1767)、家老の朝日丹波を中心に「御立派」と呼ばれる藩政改革が進むなか、17歳で松江藩主となった。
- 石州流の伊佐幸琢に茶を学んだが、流派にとらわれず「諸流皆我が流」を掲げた。
- 明和7年(1770)、『贅言』を著し、道具を重んじすぎる当世の茶を批判した。
- 名物の茶道具を集めて分類し、『古今名物類聚』18巻にまとめた。
- 隠退後は、江戸品川の別邸に数々の茶室を営み、風流三昧の暮らしを送った。
生涯
松平宗衍の次男として生まれた。明和4年(1767)、父に代わって17歳で松江藩主を継いだ。藩の財政は苦しく、家老の朝日丹波を中心に「御立派」と呼ばれる改革が進められていた。日本大百科全書によれば、改革はいちおう成功したが、朝日丹波が隠居したあと財政はふたたび悪化した。
藩主になった17歳のときから茶を学び、19歳から禅を始めて、茶と禅を一つのものとする茶風をつくった。茶は石州流の伊佐幸琢に学んだので、不昧流は石州流の一派とされる。世界大百科事典は、「不昧」の号は禅宗で重んじられる書『無門関』の語にちなむという、と書く。
明和7年(1770)に『贅言』を著して、道具を重んじすぎる当世の茶を批判した。その後、藩の財政がよくなると自ら道具の収集に乗り出し、江戸後期で最大の収集家になった。表千家は、不昧が「名物は天下古今の名物、一人一家一世の名物ならねば保護すべし」と語り、世の宝である名物を守り伝えようとしたと紹介する。
集めた名物は分類・整理され、『古今名物類聚』18巻にまとめられた。名物は、利休より前のものを大名物、利休の時代のものを名物、小堀遠州が選んだものを中興名物と呼ぶ。中興名物という呼び名は、この書に初めて見える。陶器の歴史の研究も行い、単なる好事家に終わらなかった、と日本大百科全書は書く。
文化3年(1806)、56歳で隠退して剃髪し、このころから「不昧」の号を使った。小堀遠州を慕い、大徳寺の孤篷庵を再興して、同じ所に自らの菩提所も建てた。文政元年(1818)4月24日に没した。江戸の天徳寺に葬られ、関東大震災のあと、墓は松江の月照寺に移された。
いまの茶道に残るもの
松江市は、不昧の命日の4月24日を「茶の湯の日」と定め、不昧を松江に茶の湯の文化を広めた殿様と紹介している。寛政4年(1792)に不昧の指図で建てられた菅田庵(寛政2年とする説もある)は国の重要文化財で、庭園を含む一帯は史跡・名勝に指定されている。不昧は「客の心になりて亭主せよ、亭主の心になりて客いたせ」ということばも残した。
年表から
- 1789〜97松平不昧と『古今名物類聚』