松風茶の湯の暦と銘

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千宗旦せんのそうたん

1578〜1658(天正6年〜万治元年) 江戸字(あざな)は元伯げんぱく、号は咄々斎とつとつさい。「せんのそうたん」とも読む。わび茶に徹した暮らしから「乞食宗旦そうたん」の異名があり、表千家おもてせんけは「わび宗旦そうたん」とあだ名されたとする。没日は万治元年12月19日。没年を、精選版日本国語大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典と裏千家今日庵・表千家不審菴は1658年、デジタル大辞泉と日本人名大辞典は1659年と書いている。

千利休せんのりきゅうの孫で、江戸時代初めの茶人。千家の三代にあたる。生涯、大名に仕えず、わび茶に徹した。息子たちの家が、表千家おもてせんけ・裏千家うらせんけ・武者小路千家むしゃこうじせんけの三千家さんせんけになった。

何をした人か

生涯

1578年、千少庵せんしょうあんと、利休の娘の間に生まれた。幼いころ祖父利休の意向で大徳寺だいとくじに入り、喝食かっしき(禅寺で食事を知らせる役をつとめた少年)として春屋宗園しゅんおくそうえんに仕えた。早くから詩文しぶんにすぐれ、将来を期待されたという。

1591年に利休が亡くなったとき、宗旦そうたんは13歳だった。千家は一家離散の状態になり、少庵しょうあんは会津若松あいづわかまつの蒲生氏郷がもううじさとのもとに身を寄せていたとされ、宗旦そうたんは大徳寺だいとくじで修行していた。1594年、少庵しょうあんは秀吉に許されて京に戻り、修行を終えた宗旦そうたんとともに千家を再興した。

1600年に少庵しょうあんから家督かとくを譲られ、本格的に茶会を開くようになった。小堀遠州こぼりえんしゅうの「きれいさび」の茶がもてはやされるなかで、一畳半の座敷を構えるなど、わび茶の追求を続けた。宗旦そうたんの手紙には、懐石かいせきを出さず菓子だけで茶をふるまう「菓子の茶」をしばしば行ったことが見える。

三男の江岑宗左こうしんそうさは、1642年に紀州徳川家きしゅうとくがわけに茶堂さどうとして召し抱えられた。宗旦そうたんは1646年に隠居いんきょして不審菴ふしんあんを江岑こうしんに譲り、屋敷の裏に隠居いんきょ所を作って、四男の仙叟宗室せんそうそうしつと移り住んだ。裏千家うらせんけによると、宗旦そうたんはこの隠居いんきょ屋敷に今日庵こんにちあんや又隠ゆういんを建て、のちに仙叟せんそうに譲った。これが裏千家うらせんけの始まりという。次男の一翁宗守いちおうそうしゅは、官休庵かんきゅうあんを建てて武者小路千家むしゃこうじせんけを興した。

1657年、80歳のときに描いた茶杓ちゃしゃくの絵に添えた讃さんで、「八歳から茶の湯を習ってきたが、八十歳になっても暗がりは闇である」という意味のことを書いた。宗旦そうたんが息子たちに宛てた手紙は、200通を超えて伝わる。手紙からは、露地ろじの掃除なども人任せにせず、自分で行っていたことがうかがえる。万治まんじ元年12月19日、81歳で亡くなった。

いまの茶道に残るもの

宗旦そうたんの三人の息子の家が、いまの表千家おもてせんけ・裏千家うらせんけ・武者小路千家むしゃこうじせんけ(三千家さんせんけ)にあたる。裏千家うらせんけは、今日庵こんにちあん・又隠ゆういん・寒雲亭かんうんていをいずれも宗旦そうたんが建てた茶室とする。武者小路千家むしゃこうじせんけの「官休庵かんきゅうあん」の名は、一翁宗守いちおうそうしゅが茶室を造るときに宗旦そうたんがつけたと伝わる。高弟のうち山田宗徧やまだそうへん・杉木普斎すぎきふさい・藤村庸軒ふじむらようけん・久須見疎安くすみそあんは、一般に「宗旦四天王そうたんしてんのう」と呼ばれる(顔ぶれには諸説ある)。

伝わる話

逸話として伝わるもので、史実とは限らない。

年表から

関係する人

江岑宗左仙叟宗室一翁宗守千利休

出典

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