千宗旦せんのそうたん
千利休の孫で、江戸時代初めの茶人。千家の三代にあたる。生涯、大名に仕えず、わび茶に徹した。息子たちの家が、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家になった。
何をした人か
- 利休の死後、父の千少庵とともに千家の再興にあたった。
- 祖父利休の最期を考え、生涯、大名に仕えなかったとされる。清貧に甘んじて、利休のわび茶を受け継いだ。
- 床のない一畳半の茶室を建てるなど、わびを突きつめた茶室を工夫した。
- 息子たちが大名家に茶堂(茶の湯のことを受け持つ役)として仕えられるよう、力を尽くした。
- 不審菴を江岑宗左に、今日庵を仙叟宗室に譲り、三千家の基礎を作った。
生涯
1578年、千少庵と、利休の娘の間に生まれた。幼いころ祖父利休の意向で大徳寺に入り、喝食(禅寺で食事を知らせる役をつとめた少年)として春屋宗園に仕えた。早くから詩文にすぐれ、将来を期待されたという。
1591年に利休が亡くなったとき、宗旦は13歳だった。千家は一家離散の状態になり、少庵は会津若松の蒲生氏郷のもとに身を寄せていたとされ、宗旦は大徳寺で修行していた。1594年、少庵は秀吉に許されて京に戻り、修行を終えた宗旦とともに千家を再興した。
1600年に少庵から家督を譲られ、本格的に茶会を開くようになった。小堀遠州の「きれいさび」の茶がもてはやされるなかで、一畳半の座敷を構えるなど、わび茶の追求を続けた。宗旦の手紙には、懐石を出さず菓子だけで茶をふるまう「菓子の茶」をしばしば行ったことが見える。
三男の江岑宗左は、1642年に紀州徳川家に茶堂として召し抱えられた。宗旦は1646年に隠居して不審菴を江岑に譲り、屋敷の裏に隠居所を作って、四男の仙叟宗室と移り住んだ。裏千家によると、宗旦はこの隠居屋敷に今日庵や又隠を建て、のちに仙叟に譲った。これが裏千家の始まりという。次男の一翁宗守は、官休庵を建てて武者小路千家を興した。
1657年、80歳のときに描いた茶杓の絵に添えた讃で、「八歳から茶の湯を習ってきたが、八十歳になっても暗がりは闇である」という意味のことを書いた。宗旦が息子たちに宛てた手紙は、200通を超えて伝わる。手紙からは、露地の掃除なども人任せにせず、自分で行っていたことがうかがえる。万治元年12月19日、81歳で亡くなった。
いまの茶道に残るもの
宗旦の三人の息子の家が、いまの表千家・裏千家・武者小路千家(三千家)にあたる。裏千家は、今日庵・又隠・寒雲亭をいずれも宗旦が建てた茶室とする。武者小路千家の「官休庵」の名は、一翁宗守が茶室を造るときに宗旦がつけたと伝わる。高弟のうち山田宗徧・杉木普斎・藤村庸軒・久須見疎安は、一般に「宗旦四天王」と呼ばれる(顔ぶれには諸説ある)。
伝わる話
逸話として伝わるもので、史実とは限らない。
- 京都の相国寺には、千宗旦に化けて茶席に現れ、見事な点前を披露したという化け狐「宗旦狐」の話が伝わる。
年表から
- 1646・1648宗旦の隠居と三千家
関係する人
出典
- kotobank.jp/word/千宗旦-18236
- omotesenke.jp/list3/list3-3/list3-3-1
- omotesenke.jp/list3/list3-3/list3-3-2
- omotesenke.jp/list3/list3-3/list3-3-3
- omotesenke.jp/about-omotesenke
- omotesenke.jp/list2/list2-1/list2-1-6
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_7a.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_14a.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_19a.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_27a.html
- omotesenke.jp/chanoyu/7_2_28a.html
- urasenke.or.jp/textc/about/spirit4.html
- mushakouji-senke.or.jp/history
- kotobank.jp/word/三千家-514024
- kotobank.jp/word/喝食-45224
- kotobank.jp/word/茶頭-511329
- kotobank.jp/word/宗旦四天王-1355667
- kotobank.jp/word/宗旦狐-1697280