歴史
茶の湯の歴史
喫茶の習慣は、奈良時代から平安時代の初めに唐から伝わった。鎌倉時代には、宋から抹茶の飲み方が入った。14世紀なかば、禅寺の茶の作法をもとに茶の湯が生まれる。わび茶は村田珠光に始まり、千利休が大成した。利休のあと千家は三千家に分かれ、江戸時代の中ごろには家元制度が整った。
奈良・平安8世紀〜12世紀末
喫茶の習慣は、奈良時代から平安時代の初めに、遣唐使などによって唐から伝えられた。当時の茶は固めた団茶で、砕いて湯で煎じて飲んだ。今の抹茶とは違う。その後、喫茶の流行は退いたが、宮廷や寺院の法会では、僧をもてなすのに茶が使われた。
- 804延暦23年
唐から喫茶の習慣が入る
804年に出た遣唐船で唐に渡り、帰国した空海や最澄らの留学僧が、喫茶の習慣を伝えた可能性が大きいとされる。最澄が805年に唐から茶の種を持ち帰り、近江の坂本に植えたという話も伝わる。ただ、茶の木がもともと日本に自生していたという見方などもあり、日本の茶の始まりははっきりしない。
804年は遣唐船が出た年。最澄が茶の種を持ち帰ったとされるのは805年。
- 815弘仁6年
永忠が嵯峨天皇に茶を献じる
815年4月、嵯峨天皇が近江の梵釈寺を訪れたとき、僧の永忠が茶を煎じて献じた。『日本後紀』にこの記事があり、正史に出てくる最初の茶の記事とされる。永忠は唐に30年ほど暮らして帰国した僧だった。
鎌倉12世紀末〜14世紀前半
宋に渡った栄西が抹茶の飲み方を伝え、茶の薬としての効き目を説いた。茶の栽培は鎌倉時代を通じて、寺院から農村へ広がった。鎌倉時代の後期には、禅寺の茶の作法など、のちの茶の湯のもとになるものがそろっていく。
- 1191建久2年
栄西が宋から帰国する
臨済宗の僧・栄西は、1168年と1187年の二度、宋に渡った。二度目の帰国は1191年。このとき宋から茶の種を持ち帰り、今の福岡県と佐賀県の境にある背振山に植えたとされる。宋で行われていた抹茶の飲み方を日本に伝えた人として知られる。
- 1207承元元年
明恵が栂尾に茶を植える
華厳宗の僧・明恵は、栄西から茶の種を贈られ、京都の栂尾にある高山寺に植えたと伝わる。ここの茶は「本茶」と呼ばれ、ほかの産地の「非茶」と区別された。明恵が栂尾の茶を宇治に移し植えたのが、宇治茶の始まりともいわれる。
年は表千家不審菴の年表による。辞典類は茶を植えた年を記していない。明恵が後鳥羽上皇から栂尾の地を賜り、高山寺を開いたのは1206年。
- 1214建保2年
『喫茶養生記』が書かれる
栄西が、茶の薬としての効き目を説く『喫茶養生記』を著した。日本で最も古い茶の本とされる。上巻で茶、下巻で桑の効き目を述べる。1214年2月、栄西が二日酔いの将軍・源実朝に茶をすすめ、茶の徳をほめる書を献じたと『吾妻鏡』にある。この書が『喫茶養生記』だと考えられている。
初めの稿(初治本)は1211年、直した稿(再治本)は1214年に成った。
南北朝・室町14世紀〜15世紀末
鎌倉時代の末から、茶を飲み分けて勝負する闘茶が流行した。14世紀なかばには、禅寺の茶の作法をもとに茶の湯が形になる。室町将軍家は唐物を集め、書院の座敷に飾って茶の湯を催した。15世紀の末には、唐物だけに頼らない茶の湯が現れる。
- 1336建武3年
闘茶が流行する
茶の産地や品種を飲み分けて勝負を競う遊びを、闘茶という。宋から伝わり、鎌倉時代の末から室町時代にかけて流行した。1336年の『建武式目』は、こうした大勢で飲み遊ぶことを禁じた。それでも闘茶は盛んになり、佐々木道誉らの闘茶は「百服茶」にまでふくらんだと『太平記』にある。闘茶は、いまの七事式の「茶かぶき」にその形を残す。
1336年は『建武式目』が出た年。
- 14世紀中ごろ
禅寺の作法から茶の湯へ
茶の湯の原型は、14世紀なかばにできたとされる。もとになったのは、禅寺の規則に定められた喫茶の作法だ。これをもとに、民間でも「四つ頭」と呼ばれる茶会が開かれた。椅子を使う形の茶会だった。中国から渡った唐物を部屋に飾り、唐物の道具を使う茶会も行われるようになった。
年は目安。日本大百科全書は、茶の湯の原型ができた時期を14世紀なかばとする。
- 1476文明8年
同朋衆と『君台観左右帳記』
室町将軍家は唐物を多く集めた。その鑑定や座敷の飾り付けにあたったのが、将軍の側近の同朋衆だ。能阿弥・芸阿弥・相阿弥の三代がよく知られる。座敷飾りの決まりをまとめた『君台観左右帳記』は、能阿弥が著したと伝わる。
1476年は『君台観左右帳記』能阿弥本の奥書にある日付。能阿弥は1471年に亡くなっており、この日付を疑う見方もある。
- 1486文明18年
東求堂の同仁斎
京都の慈照寺(銀閣寺)にある東求堂は、足利義政の持仏堂で、1486年に建てられた。その中の一室、同仁斎は四畳半で、付書院と違い棚を備える。炉が切られていたことから、四畳半の茶室の始まりとされてきた。ただ、客と亭主が同じ部屋に座る茶室と同じには見られない、という見方もある。現存する最古の四畳半とされる。
建立の年はデジタル大辞泉・山川日本史小辞典などによる。表千家不審菴の年表は1482年とするが、ブリタニカは1482年を、義政が東山山荘を造り始めた年とする。
- 15世紀末
村田珠光とわび茶
村田珠光は奈良に生まれ、禅僧の一休宗純に参禅した茶人で、わび茶を始めた人とされる。弟子の古市澄胤にあてた『心の一紙』(『心の文』とも)で、「和漢のさかいをまぎらかす」こと、つまり唐物と和物を融け合わせることが大事だと説いた。備前焼や信楽焼など、国焼の素朴な美しさに関心が向きはじめた頃だ。
珠光が亡くなったのは1502年。生年は1423年(デジタル大辞泉など)、裏千家は1422年とする。
戦国・安土桃山16世紀
16世紀には、京都や堺の町の人々の間で、四畳半の草庵での茶が広まった。茶会を記録する茶会記も、この頃に書かれはじめる。織田信長と豊臣秀吉は茶の湯を重んじ、千利休ら町衆の茶人を茶頭に用いた。利休は茶の湯を大成したとされるが、秀吉の命で切腹した。
- 1533天文2年
茶会記が書かれはじめる
1533年、奈良の塗師・松屋久政が『松屋会記』を書きはじめた。茶会で使った道具や料理などを記したもので、茶会記の最初とされる。1548年に『天王寺屋会記』、1554年に今井宗久の茶会記が続いた。いずれも天文年間に始まるので、まとめて「天文茶会記」と呼ぶ。
- 16世紀中ごろ
武野紹鷗とわびの茶
堺の富商・武野紹鷗は、天文年間を中心に、四畳半の茶室を基本にした茶の湯を広めるうえで中心になった。紹鷗の頃、茶の湯で初めて「わび」の美意識が自覚されたとされる。紹鷗が禅僧の大林宗套に参禅したことから、「茶禅一味」が唱えられるようになったとされる。千利休・津田宗及・今井宗久らが門下にいた。
紹鷗が亡くなったのは1555年。活動の中心は天文年間(1532〜55年)とされる。
- 1568永禄11年
織田信長と茶の湯
1568年、織田信長が京都に入った。信長は堺の経済力を取り込むため、やがて今井宗久・津田宗及・千利休ら町衆の茶人を茶頭に用いた。今井宗久は、紹鷗から伝わった名物の茶道具を信長に献上している。信長は名物の茶道具を集め、功績のある家臣には茶の湯を開くことを許し、茶道具を与えた。茶の湯は政治にも使われた。
1568年は信長が京都に入った年。名物の茶道具を集めたことを「名物狩り」といい、表千家不審菴の年表はこの年に名物狩りを行ったとする。
- 1582天正10年
利休の二畳の茶室・待庵
京都府大山崎町の妙喜庵にある二畳の茶室が、待庵だ。1582年に豊臣秀吉の命で千利休がつくったとされ、国宝になっている。利休はそれまで定型だった四畳半を、二畳にまで縮めた。客は小さな躙口から入る。利休が理想としたわび茶の場を伝える茶室とされる。
1582年は日本大百科全書の『千利休』の項や表千家不審菴の年表による。確証はなく、文化遺産オンラインは天正年間(1573〜92年)ごろとする。山川日本史小辞典は、秀吉が1582年から築いた山崎城の茶室を、1600年ごろ妙喜庵に移したと考える。
- 1585天正13年
禁中茶会と利休居士号
1585年10月、関白になった豊臣秀吉は、そのお礼に御所で茶会を開き、正親町天皇に茶を献じた。千利休も茶を披露し、このとき天皇から「利休」の居士号を与えられたとされる。それまでは宗易と名のっていた。これで利休は、天下一の茶人の地位を確かなものにした。
- 1586天正14年
黄金の茶室と宗易形の茶碗
1586年の正月、秀吉は組み立て式の黄金の茶室を御所に運び込み、正親町天皇に茶を献じた。同じ年の『松屋会記』に「宗易形の茶碗」という記述がある。利休の考えを形にした茶碗で、長次郎が焼いたものとされる。長次郎は利休の指導で黒楽や赤楽の茶碗をつくり、これが楽焼の始まりとされる。
- 1587天正15年
北野大茶湯
1587年10月1日、秀吉は京都の北野天満宮で大茶会を開いた。身分を問わず参加を呼びかけ、釜と釣瓶水指、茶碗を持ってくればよく、茶がない者は「こがし」でもよいとした。秀吉と利休、津田宗及、今井宗久が亭主を務めた。境内の松原に並んだ茶席は、約800とも1500あまりともいわれる。10日間の予定だったが、1日で終わった。肥後で一揆が起きたためといわれる。
- 1591天正19年
千利休が切腹する
1591年2月28日、千利休は秀吉の命で切腹した。70歳だった。大徳寺の山門の上に自分の木像を置いたことが理由の一つとされるが、本当の原因には定説がない。利休の死後、千家はいったん途絶えた。利休の後妻の連れ子で娘婿の少庵は、会津の蒲生氏郷に預けられたが、数年後に許されて京都に戻り、千家を再興した。
少庵が許されて京都に戻った年は、1594年ごろ(日本人名大辞典・表千家不審菴の年表)とも、1592年(世界大百科事典)ともいう。
江戸17世紀〜19世紀半ば
大名や武家の間に茶の湯が広がり、古田織部・小堀遠州・片桐石州が将軍家の茶の指南を務めた。利休の孫・宗旦の子らが三千家を興し、千家の茶は町人にも広がった。茶の湯をたしなむ人が増え、家元制度や七事式が整えられた。
- 1610慶長15年
古田織部が将軍秀忠に茶を指南する
古田織部は千利休の弟子で、のちに利休七哲の一人に数えられた。1610年には江戸城で、二代将軍・徳川秀忠に茶の湯を指南している。形のゆがんだ沓型茶碗や、窓の多い茶室を好んだ。1615年、大坂夏の陣のころ、豊臣方に内通した疑いで切腹を命じられた。
- 1626寛永3年
茶書の出版がはじまる
1626年に出た茶の湯の入門書『草人木』(3巻)が、最初に出版された茶書とされる。その後も茶書の出版は続いた。元禄のころには、増えた茶の湯人口に応えて、啓蒙的な茶書が多く出た。
- 1636寛永13年
小堀遠州が将軍家光に献茶する
小堀遠州は古田織部に茶を学んだ大名だ。幕府の作事奉行として、建築や造園も手がけた。1636年、品川御殿で三代将軍・徳川家光に献茶し、ここから「将軍家茶道師範」の呼び名が起こったとされる。その茶は「きれいさび」と呼ばれる。
- 1646・1648正保3年・慶安元年
宗旦の隠居と三千家
利休の孫・千宗旦は、大名に仕えず、生涯清貧を通した。晩年、三男の江岑宗左に不審菴を譲り、その北側の隠居所に今日庵などの茶室を建てた。隠居所はのちに四男の仙叟宗室が継いだ。次男の一翁宗守は官休庵を建てた。この三家がのちの表千家・裏千家・武者小路千家で、まとめて三千家という。
宗旦が不審菴を譲った年。表千家不審菴の年表は1646年(宗旦の隠居と江岑宗左の家督相続)、日本大百科全書は1648年(宗旦71歳)とする。
- 1665寛文5年
片桐石州と武家の茶
片桐石州は大和小泉の大名で、四代将軍・徳川家綱の茶道師範になった。1665年には江戸城の黒書院で家綱や老中に茶を点て、『石州三百箇条』を献じたと伝わる。石州の茶は石州流として、武家の間に広まった。
- 18世紀
家元制度が整う
18世紀に入り、稽古事をする町人が増えると、免許状を出す権利を家元が一手に握る仕組みが広まった。それまでは、奥義まで伝えられた者は、自分の弟子にも免許を与えることができた。新しい仕組みでは、町の師匠は教える権利だけを持ち、免許は家元が出す。これが家元制度で、茶の湯では千家や藪内家の家元がこの権利を握った。
年は目安。茶の湯の家元制度ができた時期を、日本大百科全書の『茶道』の項は18世紀前期、『家元制度』の項は18世紀中ごろから広まったとし、ブリタニカは江戸時代中期の18世紀とする。
- 1741寛保元年
七事式が定められる
表千家七代の如心斎と、その弟で裏千家八代の一燈(又玄斎)が中心になり、大徳寺の僧や門人らと話し合って七事式を定めた。花月・且座・廻り炭・廻り花・茶かぶき・一二三・員茶の七つの稽古法だ。門人が増えたのに応じて、何人かが組になって技を磨き、心を養うために考えられた。茶かぶきには、中世の闘茶が取り入れられている。
年は表千家不審菴の年表による。日本大百科全書は18世紀なかばとする。裏千家は、一燈が兄の如心斎と共に定めたとする。
- 1789〜97寛政元年〜9年
松平不昧と『古今名物類聚』
出雲松江藩主の松平不昧は、1770年に『贅言』を著し、道具に偏った当時の茶を批判した。その後、藩の財政が好転すると、江戸後期で最大の道具の収集家になった。名物の茶道具を分類した『古今名物類聚』(18巻)を著し、1789年から9年かけて刊行された。大名物・名物・中興名物という呼び分けは、この本に始まるとされる。
刊行は1789年から9年にわたり、4回に分けて行われた(世界大百科事典)。表千家不審菴の年表は1797年の刊行とする。
- 1845〜58
井伊直弼『茶湯一会集』
彦根藩主の井伊直弼は、若いころ石州流の茶を学んだ茶人でもあった。茶書『茶湯一会集』で、茶の湯の心得は「一期一会」と「独座観念」に集約されると説いた。一期一会は、茶会を一生に一度の会と思い、主も客も誠意を尽くすことをいう。もとは『山上宗二記』の「一期に一度の会」にさかのぼる言葉だ。直弼は1860年、江戸城の桜田門外で襲われて亡くなった。
成立年は資料で分かれる。精選版日本国語大辞典は1845年ごろ、日本大百科全書は1848年以前に草稿ができて1858年に完本、表千家不審菴の年表は1857年とする。
明治以降19世紀後半〜現在
明治維新のあと、茶の湯は一時衰えた。明治20年代から、政財界人が美術品として茶道具を集め、茶の湯の復興につながった。学校教育にも取り入れられ、担い手は女性が中心になっていく。戦後は家元制度が大きく伸び、茶道は海外にも紹介された。
- 1871・1872明治4年・5年
玄々斎が立礼を考案する
明治のはじめ、裏千家十一代の玄々斎が、テーブルと椅子を使って行う点前「立礼」を考案した。外国人の客のためのもので、京都で開かれた博覧会で初めて使われたとされる。今では各流派で、立礼のための卓や棚が工夫されている。
初めて使われた年を、精選版日本国語大辞典・日本大百科全書・表千家不審菴の年表は1872年の京都博覧会、ブリタニカは1871年の第1回京都博覧会とする。
- 1875明治8年
女子教育に茶の湯が入る
1875年、跡見花蹊が東京・神田に女学校(のちの跡見女学校)を開き、点茶も教えた。裏千家十三代の圓能斎も、学校教育に茶道を取り入れた。江戸時代まで、茶の湯をたしなむのはほとんどが男性だった。近代には、女子教育を通して女性が新しい担い手になった。
女性が茶の湯の主な担い手になった時期は見方が分かれる。日本大百科全書の『茶道』の項は明治以降とし、世界大百科事典とブリタニカは昭和に入ってから、日本大百科全書の『家元制度』の項は昭和30年代とする。
- 1895・1896明治28年・29年
近代の数寄者と大師会
明治20年代以降、井上馨などの政界人や、益田孝(鈍翁)などの財界人の間で、美術品を集める趣味が広がった。これが茶道の復興につながった。茶道を愛するこうしたコレクターを数寄者と呼ぶ。益田鈍翁が始めた大師会は、京都の光悦会と並んで、近代を代表する大茶会になった。
大師会の始まりを、日本大百科全書と世界大百科事典(旧版)は1895年、表千家不審菴の年表は1896年とする。
- 1906明治39年
岡倉天心『茶の本』
岡倉天心が英語で書いた『The Book of Tea』(茶の本)が、1906年にニューヨークで出版された。茶道を通して、日本人の精神文化や生活観を欧米の人に紹介した本だ。昭和に入ると日本語訳が広く読まれ、茶道が大衆に広がるきっかけの一つになったとされる。
日本語訳の出版は、表千家不審菴の年表が1927年、日本大百科全書・世界大百科事典が1929年とする。
- 戦後
戦後の広がりと海外への普及
戦後、茶道の家元制度は大きく伸び、茶道人口は数百万といわれるまでになった。茶道は日本文化の一つとして海外にも紹介された。裏千家十四代の淡々斎は、学校や職場での茶道の普及を図り、海外への普及にも取り組んだ。表千家不審菴の年表によると、1955年には千家同門会が初めての海外支部をハワイにつくった。
年は目安。1955年は、表千家の千家同門会がハワイ支部をつくった年。